ほのぼのエッセイ第9回 四万十川について
8月12~15日の間で、高知県に行ってきた。祖母の実家が高知の大野見(西側のだいぶ奥まったところにある高原地域)にあり、小学生のころは毎盆そこに家族で帰っていた。家のすぐ右前には四万十川が流れており、子どもの頃は浮き輪やヘルパーをつけてずっと泳いでいたのだ。文字通り一日中泳いでも飽きなかった。“日本最後の清流“という大仰な二つ名がつけられてる通りの大自然だった。子どもの頃は延々と遊べる体力もあいまり、どこまでも享受することができた。
「まがり」という場所がある。そこは、川の流れにより岩が削られてできたドン深になっている場所である。そこには、たくさんのイダ(ウグイ)、ハヤ(モツゴ)が群れをなし、旋回していた。川底までびっしりローリングしていた。僕は、そこによく大きめの石を持ってきて落とすのが好きだった。石を落とすと魚でできた壁がキラッとひかり、穴が開く。そして崩れたリズムを取り戻すようにまた旋回が元に戻る。僕はただの悪戯心で、ナンセンスな行為を続け自然に干渉した。今となってはそれもいい景色である。
兄は、僕より断然器用だったので、よくモリを持って「まがり」など深いところに泳いでいき魚を捕らえてきた。兄は、もう小2くらいからヘルパーを外し、一人でずんずん深いところまで行った。僕はテレビでやっている水難事故の映像などを間にうけて、なかなか勇気が出ず小4くらいまでヘルパーが取れなかった。(いまでも飛び込みとかもし岩があったらどないしょ、と思って結構苦手)兄は、なかなかの野生児っぷりを四万十川で覚醒させ、ハヤやドンコ(カジカ)を取って、川のそばで焼いて食べた。ドンコは白身が甘くておいしかったのを覚えている。
当時、『黄金伝説』というテレビ番組でよゐこの濱口が、モリ突きで魚を取り、節約生活や無人島生活を乗り越えるというのがあった。僕たちはそれを実際にできているのが楽しかった。(僕はただ魚に向かって石を落としていただけだったが)レジャーではない、サバイバル的な楽しさがそこにはあったのだ。ストレスも何もない子どもながら、何かから解放されるのを感じていた。
何より解放されたのは、僕らがずっと裸でよかったことだ。全裸でずっといた。川に入る時も飯を食べる時も。別に人がいないから気にすることもなかった。人なんか基本的に親戚以外いないのだ。時々、通る知らない農家の車に恥ずかしくなって、ダンボールで陰部を隠すなどはした。農家のおっちゃんがニヤニヤしながら僕を見ていた。でも、途中からそれも気にしなくなった。ほんとに時たま通る観光の車にも小さいブツを見せつけていた。ここはこういうルールなんやというある種の優越感、超越性みたいなものがあった。都会人に対するエキゾチックな感覚があった。
そして、うんこもおしっこも垂れ流しOKだった。外でもいくらしてもOK、わざわざトイレでする必要はなかった。小1のころ、僕は、ぼっとん便所でうんこするのが嫌だった。ハマったら奈落の底に吸い込まれ死んでしまうんじゃないか?死なないまでも、うんこまみれの生き地獄になったら嫌だな死んだも同然だなと思ってなかなかできなかった。一回小便器にうんこをしたら、案の定バレた。はじやんに「ほな、もう外でやれや」と言われてから、大野見周辺全てが僕のうんこゾーンになった。うんこがしたくなったら、おかんを呼んで、野糞するのを終わるまでみてもらった。それをティッシュで包み、家の前にあるポッカリ空いた穴にぶち込んだ。夕方には、はじやんがゴミをそこで焼いたので、一緒にうんこを焼いてもらった。ゴミ山の大きな火から出る煙に、僕のうんこの煙も混ざっているんだな、万物は生成変化をし続け、世界はなりたってるんだな、ととても感慨深かった。
もちろん、四万十川でもいくらでもうんこもおしっこもしてもよかった。放尿、脱糞時に、イダやハヤの小魚が僕に近寄ってきて口をパクパクしてるのが可愛かった。さしづめ、魚の人気者になりリトルマーメイドにでもなったような気分だった。ほんとはうんこ野郎なのに。車でいく温泉からは、下流の方のキャンプ場が見えた。なんだか、そこの人たちが僕のしたうんこエキスの染みた川で遊んでいるのをみると申し訳ない気持ちになった。
他にも、はじやんという叔父と仕掛けた網をとりにいったら鮎が100匹くらいついていたり、バナナの皮を置いていたらカブトムシが寄ってきたり、檻に捉えられた猪が自分が吐いていたゲロでスケートみたいに足を滑らせて遊んでいたり、と生命力のとてつもなさを感じる機会がたくさんあった。えぐかったけど、スリリングだった。
久しぶりに帰った、四万十川はだいぶ様子が変わっていた。西日本は雨が少なく、川の水が極端に少なかった。川に浸かると、子どものころに感じた凍るような冷たさはなく、なんだか生温かった。「まがり」には近くのおっさんか行政か業者かわからんが放流した鯉が屯していた。イダやハヤは川の端に追いやられている感じだった。他にもナマズやスッポンなど人口的に放流されたであろう生物が跋扈していた。鮎は今年全然いないらしい。
顔馴染みの町民も亡くなった方がいて、集落は少し寂しい感じだった。まだ、(それでも過疎と言われていたが)僕が子どものころは、活気があったんだなと思う。親戚もみんな頭は白髪まみれになっていた。
僕は四万十川に浸かった。「まがり」付近に行って誰も周りにいないことを確認してから海パンを脱いだ。そして、ぶりぶりとうんこをしてやった。子どものころと同じように、うんこはぷかっと水中に浮かんだ。小魚が周りをパクパクしていた。僕はそのまま「まがり」の最奥部までいった。1メートルくらいの鯉が20匹くらい群れをなして泳いでいた。そこに自分の顔ぐらいある石を持ってきて、落とした。石が川底に着地した瞬間、ゴッという音が水中に響いた。すると、鯉どもが焦って散り散りになった。海面の方にきたやつは、追いかけ回してやった。「やばい、やばいやつおるって」と鯉は焦っていた。
ふははは、と思った。おもろいやないか四万十川と思った。おもろいままでいてくれよと思った。最近生まれた甥っ子にも、このおもろさをいつか伝えなきゃいけないと思う。だから、まず僕がおもしろがらないかんなと思った。
帰り、親戚と写真を撮った。田舎の土着的でダサいのが、僕はある歳から苦手だったけど、ただただ楽しめるぐらいは大人になった。みんな老いたけど、また会えるよとも思った。
カツオや刺身をたくさん食べて慣れた舌に、帰りの国道で車中から見えるカレーやラーメンの看板がおいしそうに見えた。その感じが、とても懐かしかった。