見出し画像

愛について

日本人にとって「愛」という言葉とか概念は使いこなせてないなという気がしてます。

単に「好き」という言葉の類義語として使われているようにも思います。

「愛」というのは、日本になかったカルチャーなのに、頑張って使い始めたのであまり馴染んでいない言葉なんじゃないかなと考えています。


愛はもともと外国のカルチャー

愛というのは、もともとはキリスト教にあったものだと思います。「隣人愛」「神への愛」「神による人間への愛」とかです。

日本人がキリスト教を十分に信仰している状態で「愛」を使っていればよかったかもしれませんが、そうではないように感じます。

孔子は愛のようなものを「仁」と呼んでいたっぽいです。

仏教における愛は、なんとなくですが「欲」の概念に近い気がします。

さまざまな国や宗教で、愛という言葉はあります。でもそのどれも日本のものではなくて外国のものです。無宗教な日本人が自分たちの文脈で「愛」を語ったり使ったりするのは、やや歪んでいる状態だと言えると思います。

愛ではない、日本人が大切にしていたもの

でも、愛があらわす「人間のぬくもり」とか「おもいやり」のようなものが日本人に備わっていなかったというわけではないはずです。

それは「縁」という言葉や概念で扱われていたんじゃないかというのが、今の自分の考えです。

たとえば家族や出会いは、日本人は血縁とか巡り合わせという意味で「縁」と呼んでいたのかもしれません。愛ではなくて。

愛に対する自分の考え

自分にも、愛のようなものが垣間見えることがあります。ドライですけどそれらは全部、生物学的な「近縁度」によって説明できる感情だと認識しています。それは生物を、自己複製をする方向に進むように見える行動をするものだと定義したときに、遺伝子が近い他個体の生存確率を上げる行動をするだろう、というような考え方です。

親が子を大切にする現象を愛と呼ぶ場合があると思います。親にとって、子どもは自分と半分ほど遺伝子が同じわけなので、それだけ大切にする価値があるということ。

自分にはまだ愛というのはよくわからない一方で説明はできるので、この世界に間違いなくあるものだなと考えていて、その存在自体は否定していません。

でも、まったく血縁度のない他個体に対して、愛があるというのはうそに見えます。

自分の好きな言葉

先日、好きな言葉はなにかという話になりました。

そのときに自分が思いついたのが、愛でした。

自分には縁という言葉の方が合うので、愛がなくて代わりに縁という言葉が使われている世界が楽でいいなと思います。でもここはそんな世界ではないですよね。

だから、愛なんてものはないなと思いつつも、愛が語られているこの世界が愛しいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?