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差別に抗う

活動の中身ってなにか

 私はいま、ヘイトスピーチを伴うデモ(以下ヘイトデモと呼ぶ)に対するカウンター行動にも再び参加することが多くなってきた。この10年ほどは土日祝日が仕事になることが多かったために参加ができなかったというだけのことではあるが、スタンディングなどで一緒に活動する仲間の中にヘイトデモに対するカウンター行動にも熱心な人がおり、土日なども休みが取りやすくなったという個人的な事情も重なり、再びトラメガを手に、差別主義者たちに抗議をすることにした。しかし、そのようなヘイトデモを政治が呼び起こしているかのような状況もあり、2024年8月8日には、東京都庁前におけるスタンディングに参加をすることにした。その帰り際、詳細を書くことは控えるが、東京都の地方公務員に対しかなり頭にくることがあったので、勢いに任せて今回もそれなりの長文を書いた。

なぜヘイトスピーチがいけないことなのか

 もし仮に5人ほどの集団の中に、多数派である××人4名と少数派である〇〇人(××〇〇の中身は国籍でも民族でもその他の属性でも可)であるAさんがいたとする。そのAさんに向けて直接「Aをぶっ殺してやる」と言えば脅迫であることはAさん以外にも明確だ。しかしAさんの属性である「〇〇人をぶっ殺してやる」とその集団に向けて言った場合はどうであろうか。集団構成員であるその他4名が、Aさんが〇〇人であることを知らなかった場合には単なる暴言としか感じられなかったとしても、Aさん個人にとっては「Aをぶっ殺してやる」と直接言われた場合とまったく同じ効果を生む。それも、他の構成員には知られることなくである。さらには、Aさんとは違った形であったとしても少数派である属性を持つ者が他にもいたならば「次は自分の属性が攻撃されるかもしれない」という緊張を強いることになる。さらには、言論だけではなく、ヘイトクライムと呼ばれる実力行使をも引き起こす。これがヘイトスピーチの特性だ。しかし、脅迫は刑法において犯罪とされ罰則規定もあるが、属性を攻撃するヘイトスピーチは理念法である「ヘイトスピーチ解消法」こそ制定はされたものの、罰則規定はなく、ヘイトスピーチから保護されるべき対象と法で定められている属性も、極めて限定された範囲にとどまっている。

101年前のことから繋がる今

 1923年9月1日、東京を最大震度7ともいわれる強烈な揺れが襲った。今から101年前の出来事だ。揺れによる倒壊家屋の被害及びその後に発生した大火災による被害者は、死者と行方不明を合わせて10万人を超える規模になった。直後から、流言飛語による虐殺事案も南関東を中心に被災地域で多発することとなり、その被害者も在日朝鮮人6,000人以上、中国人も600人以上とされ、発声や出身地方独特の表現などから外国人と間違われた日本国籍者もまた、多くの者が命を奪われた。
 そして、発生から100年以上を経過した現代では、そのような虐殺を風化させるだけではなく、事件をなかったとする歴史修正主義が力を増してきており、それに加担しているのが今の東京都知事である小池ゆり子だとされている。2010年当時国会議員だった小池は、歴史修正主義を掲げる団体である「そよ風」の集会において講演を行った。その後「そよ風」は、朝鮮人虐殺被害者慰霊碑が設置されている墨田区の横網町公園において、朝鮮人犠牲者数を否定する集会を2017年から毎年のように画策する。さらには、同年より、歴代都知事が発出していた関東大震災朝鮮人虐殺犠牲者に対する慰霊の追悼文を小池ゆり子都知事が中断することにより、まさに、日本に居住する一部外国人を見下し、偏見による差別を煽るような状況が現代の東京に出現しているのである。東京都の公務員こそ、このような状況が持つ深刻な意味を理解しなければならないだろう。

国際観光立国日本

 2003年に始まったVisit JAPANキャンペーンにより、2024年には、訪日観光客数は3,500万人前後まで増加すると見込まれている。しかし、日本という国は、地震や台風など、世界でも有数の自然災害が多発することで知られる国だ。その日本に、政府主導で多数の外国人観光客を誘致しているのである。もし、災害が発生したらどうするのか。当然、私たちには、日本国内に滞在している外国人を保護する義務が生じる。しかし、101年前に起こした虐殺を省みることなく、あたかもまるでそのような事件がなかったかのように振舞う国が多数の外国人観光客を誘致するのは、道義的に考えても許されないことなのではないだろうか。2024年の8月8日にも、悪趣味なプロジェクションマッピングが投影されている東京都庁舎の下には、絶対的な数こそそれほどまでには多くないものの外国人観光客の姿がそこここに見られた。

2024年8月9日

 この日は長崎市において、79年前に投下された核兵器による犠牲者を追悼し平和を祈念する式典が開催された。しかし、パレスチナのガザ地区において民間人を攻撃しているイスラエルに対し、長崎市は大使を招待しないという決定をした。式典に先だって長崎市からイスラエル大使に対して停戦を求める書簡を発したが、イスラエル大使館としてなにも対応がなされなかったことによる判断だとされている。同様に、ウクライナ侵攻によってロシアとベラルーシも大使の招待がなされなかったが、これとイスラエルをまるで同列に並べているかのように見えるとし、その抗議として在日イギリス大使の主導によって、アメリカ・カナダ・フランス・イタリア・ドイツなどG7諸国の大使も平和祈念式典をボイコットした。中でも特に、アメリカ大使については、核兵器を使用した当事者であり、その当事者が核兵器使用による民間人の犠牲者について、どのような見識であるのか大きな疑問符が付く事態となった。

加害者が省みることの意味と責任

 過去の過ちを覆い隠しなかったかのように振舞うことで信用を獲得できるとでもいうのか。過去に自らが犯した過ちを反省し、被害者には真摯な謝罪をすることで未来に生かす。これが、知性と社会性を獲得した人類が歩むべき道だ。アメリカ大使をはじめ、G7と呼ばれる国のほとんどは、かつてこの地球上をまるですべて自分たちの所有物であるかのごとく身勝手に分割し、それぞれが広大な植民地を有し、被支配地域の民衆に塗炭の苦しみを与えた国々でもある。そして、それらの国が、今のイスラエルの所業を肯定することで2024年の現代にも「虐殺されてもよい人々」というカテゴリーを作り出している。私たち日本人は、かつてそれらの国々と一緒になって加害者として振る舞い、逆に、核兵器と焼夷弾による空襲を受けることで無差別虐殺の被害も体験した。だからこそ、加害者の反省がどのような意味を持つのかを理解しているはずであるし、自らの加害についても真剣に考える必要があるのではないだろうか。私たちが犯した過去の加害を真摯に反省し、被害者に向き合い、謝罪をすることによってこそ、東アジアにおいて真の友好と共存の未来を築くことができるようになる。まもなく、東アジア各国は、少子化などによってこれまでの国境線すら維持することが難しくなってくる。しかし、私たちは、これから生まれてくる人たちに対する責任をもって平和を維持し、この国・この地域を引き渡さなければならない。そのためにも、私たちは強い怒りをもって叫ぶのである。差別をやめろ、と。

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