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本当はその場にいるだけでいいのに、何かをしなければと人は期待する
水車小屋のネネを読んだ。
最初、ネネという女の子が水車小屋に住んでいる海外の話だと思っていた。まさか鳥だとは思わず。オウムでもインコでもなくヨウム。
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物語は1981年から始まる10年スパンになっている。
その間にできたことは余り書かれず、誰かが結婚した経緯とかは書かれない。誰かがその間亡くなっても、死に様も書かれない。
ネネは蕎麦屋の鳥で、水車でそばの実を引いているのを「見張る」役目をしている。ネネの元の飼い主である蕎麦屋のおじいさんが仕込んだらしい。
「からっぽ」とネネが言うと、そばの実を補充する。
ネネは「からっぽ」と見張る必要はないらしい。でもネネの方が人の目よりも無くなる寸前に気づくため、言ってしまえば効率が良い。
ネネは言葉を話すし、割と言ってることを理解しているっぽいけど、どこまで理解しているかは分からない。
そばの実を見張る必要ないよ、と言っても蕎麦屋がやっている以上は水車でそばの実を引くことはあるわけで、ネネにとってはそれが必須のルーティンだからネネからその仕事を奪うことはできない。多分。
蕎麦屋のご夫婦(おじいさんの息子夫婦、いや、娘夫婦か?)の奥さんが鳥アレルギーのため、ネネの世話兼そばの実補充係として、18歳の女の子がやってくる。8歳の妹を連れて。
10歳差の姉妹を中心に話は進む。
最初は1981年、18歳と8歳の姉妹の物語。
続いて1991年、28歳と18歳の姉妹を中心に、挫折の真っ只中にいる28歳の男性が出てくる。
2001年、そこに14歳の男の子が話に加わる。
2011年、東北の大震災が描かれ、それに伴い目指すところも変わってくる。
エピローグの2021年はあっさりと。いつの間にか14歳の彼は2児の父になっていた。
ネネは、ただそこにいる
ネネは、ただそこにいる。
ただ、そこにいるだけ。
そこにいるだけで良い。
これは「鳥だからね」もあると思う。
人だったら「あれをしてくれない」と他人に対して思うこともあるし、「何もできない」自分に打ちひしがれることもある。
自分に価値を見出せなくて、生きている意味が分からなくなるときもある。
でも、いざその人がいなくなったとき、「いるだけで良かったのに」と思うことがある。
水車小屋のネネに出てくる人は、誰もが一生懸命。
最初は姉妹の母親に腹を立つのだけどw 母親も一生懸命なんだ。
ちょこちょこと「あぁそんな意地悪なこと言わんでもええのに」と思うシーンもあるのだけど、その人がなぜそう言ったのか、その背景を思えば決して憎らしいとは思わない。
誰もが背景があり、誰もが一生懸命。
誰かに親切にしなきゃ、人生は長く退屈なものですよ
ネネも誰もかも、永遠には一緒にいれない。
生まれた以上は死ぬのが必然だから。
だからと言って、誰にも関わらない人生は耐えられない。
「人は弱い生き物だから、群れないと生きていけないでしょ」
と研究者の友だちが言っていた。
一人だと、野菜も作れないし、水道だって作れない。火を起こせたとしても、職人がいないと鍋だってない。
動物は1匹で生きていく力を持っているけど(群れて生きる動物もいるけど)、人間は一人では無理。わたしの大好きなウォンバットも基本は群れを成さず、単独行動で生きる。(ベイビーだけがママと1年くらい一緒にいるだけ)
誰かと関わらないと、わたしたちは生きていけない。
誰かと関わらないと、わたしたちの人生は暇。
自分が受けた優しさや親切は、誰か困った人がいたときに渡していく。
物語は決して幸せだけじゃない、老いや別れや困難もあるけど、人が人に関わり、できる親切を受け取っていくことでバトンがつながっていく。
ずっと気になっていた本で、図書館で借りようと思ったら40人待ちだったので「買えば良いやん」で買ってきた。
買って良かった。手元に置いておきたい。
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