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ミャンマーで起きていること

いま、ミャンマーが大変なことになっている。
具体的には、2021年2月1日、軍によるクーデターが発生。直後は市民生活に然程の混乱はないように報道されていた。けれど、その日から一ヶ月以上が経過したいま、軍が市民に実弾を発砲するなどし、少なくない数の死傷者が出る事態となっている。今日はミャンマーでなにが起きているのかを、私なりに整理しながら書きたい。

正直に言おう。
令和の日本で暮らしている私にとって、「クーデター」という言葉はマンガでしか見たことのないどこかボンヤリした言葉だった。それも、ミャンマーという日常ではなかなか聞かない国の出来事だ。
私が今回の事件を身近に感じるのは、俳優や歌手として活動している森崎ウィンさんのファンだからだ。森崎ウィンさんはミャンマー出身の30歳。10歳頃から日本に住むようになり、現在も日本を中心に芸能活動をしているが国籍はミャンマーだ。スピルバーグ監督の「レディ・プレイヤー1」に出てくる日本人役として抜擢され「俺はガンダムで行く」という名セリフとともに世間に名前を知られるようになった。
という情報を、軽く諳んじられる程度には私は彼のファンだ。彼の魅力はまた別の記事で語らせてほしい。とにかく、私のミャンマーへの関心はとてもミーハーなところからスタートしている。

私は普段、イケメンと動物や甘いもののことしか頭にない人間だ。歴史や政治は専門外どころか、素人。成績的にはマイナスだ。学校の世界史の授業は昼寝の時間だと思っていた。それでも、今回自分なりにいろいろ調べるうちにミャンマーは日本とは単なるアジアの国同士という以上の関係があることを知った。起きてしまったクーデターも日本とは決して無関係ではない、むしろ日本人であればこそ関心を持たなければいけないことだと思えてくる。

ミャンマーの歴史

ミャンマーは西側はインド、北側は中国と国境を接している。そして南側はインド洋。行ったことはないが、綺麗なリゾートがいくつかあり、その中にはトリップアドバイザーでアジアNO.1に選ばれたビーチもあるそうだ。

この「インド」「中国」「海」に囲まれた地図上の位置が、ミャンマーを歴史的に不安定にさせていると言ってもいいと思う。

18世紀後半、ヨーロッパ・イギリスで起きた「産業革命」。ミャンマーの話をするのに、ちょっと自分でもびっくりするくらいに歴史を遡ってしまった。産業革命は、歴史の授業をほぼ寝ていた私でも聞いたことがある。機械の発明が進み、工場ができて、製品がどんどん作れるようになった。

これが世界を二つに分けた。雇う側と雇われる側。資本家と労働者(私はこの労働者側が嫌で脱サラを目指しているわけである)。これは、世界規模で見ると支配する側とされる側という構造を強めることになった。

イギリスにとって植民地は作り出した製品を売る市場、同時に安い労働力と見なされるようになった。特にインドと中国は重要で、ミャンマー(旧ビルマ)は二国を結ぶ海上ルートの中継地点として1885年イギリスの植民地となる。このときのイギリスとの戦争で、ビルマ全土を統一していた王朝(ビルマ王国)は滅ぼされた。

その後、ビルマの中では反イギリス・民族独立の意識が強まっていく。アウン・サン・スー・チー氏の父が率いた「タキン党」は反英独立闘争を展開するもイギリスにより組織は1940年に壊滅。アウン・サン氏は日本へ亡命したのである。
(まさかここで日本の名前が出てくるとは思わなかった。)
ここから、ミャンマーと日本の関係が始まった。

ミャンマーと日本

当時「大東亜共栄圏」を掲げ、東南アジアへ進出していた旧日本軍と、独立を果たしたいアウン・サン氏らは、イギリスをビルマから退かせたいという目的で一致していた。旧日本軍に極秘での軍事訓練を受けるなど支援を受けたアウン・サン氏はビルマ独立義勇軍を組織。これでビルマははじめて武力を獲得し、アジア・太平洋戦争中にイギリス軍と闘った。
この組織は、現在クーデターを起こしているミャンマー軍の基礎となっているのだ。このことを知らない日本人は多いと思う。いま日本に生きている人に責任と持てというのは違う。けれど、知らないでいいということにはならないと思う。

1943年、ビルマは日本の占領下で名ばかりの独立を果たすが、ビルマに暮らす一般市民の生活環境は悪化した。日本軍から労働力の供出を強制され、流通の混乱から飢饉が起き、さらには連合軍の空襲の標的にされるなど、苦しむ人が多かった。1945年、アウン・サン氏は独立義勇軍や反日組織を指導し、半日闘争を開始。本当の意味でのビルマの独立を目指した。いまでこそ、ミャンマーは親日国家とされているが、ビルマと日本は戦争をしていたのだ。

太平洋戦争が終結し旧日本軍が撤退した後、再びイギリスとの戦いを経て1948年に独立をする。
しかし、直前にアウン・サン氏は暗殺されてしまった。なんということだろうか。やっと独立できたのに。
カリスマ的な政治家であったアウン・サン氏を失ったビルマの政治は混乱を極めた。この混乱を収めるため、かつてアウン・サン氏とともに旧日本軍から軍事訓練を受けた同志であり、国軍司令官を務めていたネ・ウイン氏が暫定措置として政権を掌握。
これは、最初のクーデターだった。ネ・ウイン氏は、私の想像ではきっと多分真面目な人で選挙で正当に選ばれた政党が現れれば、政権を移譲するとしたそうだ。これが、ビルマ・ミャンマー軍にとっての正義だった。
ところが、政権を運営できるだけの政党は現れないということで、独裁的な軍政が続いた。どんなにいい人でも、権力に溺れてしまうのだろうか。それとも周囲が狂っていったのだろうか。詳細はわからない。
社会主義的の閉鎖的な経済施策により、ビルマの経済は停滞。天然ガスなどの豊富な天然資源に恵まれているにもかかわらず、1987年には国連から後発開発途上国として認定される程の貧困に直面する。

スー・チー氏の登場と民主化への道

1988年、学生運動から国民的な民主化要求運動がはじまった。これを受け、ネ・ウイン氏の独裁政権は退陣、経済開放施策に舵が切り直された。しかし、その後にビルマ軍による組織「国家平和発展評議会(国家法秩序回復評議会)」が軍事クーデターを起こす。騒乱を鎮めるという目的で、刃はデモに参加していた僧侶や民間人に向けられた。数千人が殺害され、民主化運動は制圧されたと言われている。やり方に平和も秩序もないのである。
さらに、選挙への出馬を目指して国民民主連盟(NLD)を結党したアウン・サン・スー・チー氏はその影響力を恐れた軍により自宅軟禁されてしまう。1990年の選挙ではNLDが大勝を収めるも「国家の安全を優先する」とした軍により、政権移譲は成されなかった。
これに対し、国際社会が非難。経済的な制裁を行ったことで、ミャンマーは打撃を受け、徐々に民主化への道を辿ることとなった。

2011年にはようやく民政移管が成され、同年に長い自宅軟禁から開放されたスー・チー氏が、2015年に国家顧問に就任、国軍主導の政権がついに終わった。けれど、これで終わりではなかった。

当然と言えば当然なのだが、スー・チー氏の軍に対する猜疑心は濃い。NLDは、軍人の特権的地位を認める憲法を改正すると掲げた。これは既得権益を守りたい軍の人間にとっては脅威だ。また、スー・チー氏は軍がミャンマーの少数民族、ロヒンギャ族へ過剰な武力行使をしたと認めていた。このことに対しても、軍は不満を持っていたとされている。

いま起きていること

2020年11月に行われた5年に一度のミャンマー総選挙で、スー・チー氏率いるNLDが圧勝。スー・チー氏が二期目を迎えることは確実だった。ところが、2021年2月1日、「選挙が不正に行われた」として軍によるクーデターが発生。ネ・ウイン氏が最初のクーデターを起こしたときと同じように、正当な政権がなければ軍が政権を運営する、というスタンスを強引に持ってきた形に見える。
スー・チー氏は拘束され、再び軟禁された。

いま、ミャンマーでは国民による大規模なデモが起き、軍や警察が参加者に暴力行為や実弾の発砲を行う弾圧が激化。死者は50名以上、数千人が拘束されているという報道がある。このままでは、過去に起きた弾圧が繰り返されてしまう。軍による市民の虐殺は、たった30年前に起きたばかり。ミャンマーに住む人々にとって、それは生々しい記憶としてあるはずだ。
民間人に対する暴力行為を受け入れられないとし、複数の警察が不服従運動に参加。インドへ逃亡した人もいるが、軍からはインドに対し送還の要請が出されているという。

平和を祈るしかできない

日本に住んで、なにもできない自分は無力だ。ミャンマーに住む皆さんに、少しでも早く平穏が戻ることを祈るしかない。
ただ、なにもせずに落ち込んでいるのも、ここで誰も読まないかもと分かっていて記事を書くのも、無力加減は同じだ。それなら、自分にできることだけはしたいと思って、今日は拙いなりにこの記事を書いた。
目の前のできることをすれば、いつかきっといい方向に繋がると信じたい。


最後までお読み頂きありがとうございました!