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消えてゆく風景の中に (115の坂が語ること#9 伊賀坂)

  文京区には、115の名前がついた坂がある.
武蔵野台地の東の周辺部に広がるこの区には、本郷・白山・小石川・小日向・目白という5つの台地が広がり、台地と谷を結ぶ坂には、江戸時代につけられた名前が今も使われている。


 週末、急に気温が上がり、春めいた。日差しを享受しようと、いつも夕方行く買い物を早め、明るいうちに伊賀坂を下りて、白山通りのスーパーに買い物に行った。私のように暖かい日差しに誘われたのか、人通りが多い。小学校の2年生頃まで、この坂の上まで習字の稽古に通っていた。平日だったせいか、静かであまり人気がなかった印象がある。

 毎週金曜日が稽古の日だった。もっと遊んでいたいのに、3時少し前になると「早く行きなさい。」と言われ、しまいには「言うことを聞かない子は、袋のおじさんに連れにて行かれますよ!」と尻を叩かれた。『袋のおじさん』と脅されてもイメージが浮かばず、そのこ頃時々近所でみかけた、リヤカーを引く人たちを『袋のおじさん』と勝手に結び付けてしまった。『深夜になると、袋の代わりにあの荷台に、言うことを聞かない子供たちをいっぱい乗せているのではないか。』


 習字の先生の家は、指ヶ谷小学校の北にある伊賀坂をそのまま直進し、左に曲がったところにあった。大谷石の内側に立派な日本庭園が見えるお屋敷だったが、今は3軒の家が建っている。70代に手が届こうかという先生は、銀色に染めた髪をきれいにセットした上品なご婦人で、しぶしぶ通う教え甲斐のない子供の書く字も、丁寧に穏やかに添削してくださった。あの時、真剣に練習していれば、今のように芳名帳に名前を書くたびに、冷や汗をかくこともなかったのに。


 帰り道であるおじさんと一緒になることがあった。先生の家を出ると、坂の上から、ちょうど中ほどにある指ヶ谷小学校に向かって坂を下り、小学校のところで蓮華寺坂方向に折り返してまた上る。おじさんは白山通りから伊賀坂を指ヶ谷小まで上ってきて、そこから私と同じように蓮華寺坂上に向かう。いつも黒っぽい服を着て、黒っぽい帽子をかぶり、『袋のおじさん』と勝手にリンクさせてしまった、あのリヤカーを引いていた。視線を下に落としたまま、ぎいぎいという音をさせながら、ゆっくりだが一歩一歩坂下から近づいてくる。帰る頃には、日が短い季節だともう長くなった影法師が足元から頼りなげに伸びている。

 蓮華寺坂上に出れば広い道路が通っているが、指ヶ谷小学校から大通りまでは、緩く上る狭い道が200mほど続く。先生の家を出て、おじさんを見つけると、路地を一緒に並んで歩かなくて済むように、広い通りまで走ったり、あるいはおじさんが先に角を曲がろうとしていれば、伊賀坂を白山通りまで下りて遠回りをしたりしてやりすごした。


タイミング悪く、一緒に歩くこともあった。そのような時は同じ方向に向かって歩きながらも、距離をとって歩いた。ある日、おじさんが何か言っているのに気が付いた。「もっと頑張らんとな。」「まだ次がある。」また別の日は「今日はほめられただろう?」というようなことを、顔を下に向けたまま、誰に言うでもない様子でぶつぶつ呟いていた。耳にして戸惑った。私に向かって話かけているなら返事をしないと悪いし、独り言かもしれない。気になりながらも、早く帰らないと怒られると走り出し、おじさんより先に広い通りに出て家に帰った。
 上の学年になるにつれ、学校から帰るのが遅くなり、習字の稽古はやめてしまった。おじさんと距離を置いたまま、一度も挨拶することも、言葉を交わすこともなかった。
 やがてリヤカーを町中で見ることがなくなった。


 70年代の初めのことである。今なら、おじさんはリヤカーを引きながら、家族を支えるために廃品を集めていたと想像がつく。豊かになるにつれ廃棄物が増え、1970年には廃棄物処理法が定められた。以降ごみ処理の規制が厳しくなり、町の中からごみが消えるとともに、リヤカーを引く人も消えた。


 日々見ている風景は変化する。ウクライナの人たちが直面しているように、一夜にして一変してしまうこともあれあれば、町の中から少しずつ数が減り、いつの間にか消えてしまうものもある。気づかないうちになくなっているものは、新聞やニュースでは取り上げられず、次第に忘れられてしまう。でも実は、大きく取り上げられる変化よりずっと身近なことで、「ああそういえば、あの頃そういうものがあった。」と思い出すと、笑ったり、泣いたりしたその時の毎日が蘇る。


 リヤカーを引きながら「もっと頑張らんとな。」と、自分を叱咤激励していたのか。家で待つ我が子との団欒での話題を考えていたのか。それともお習字バッグを片手に遠巻きに見ている子を怖がらせないように、わざと目をそらせて話しかけた言葉だったのか。


 伊賀坂のおじさんを『袋のおじさん』と命名し、この町で過ごした子ども時代の一枚として、記憶のアルバムに保存している。

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