Jazz喫茶『映画館』(115の坂が語ること#10 薬師坂)
文京区には、115の名前がついた坂がある.
武蔵野台地の東の周辺部に広がるこの区には、本郷・白山・小石川・小日向・目白という5つの台地が広がり、台地と谷を結ぶ坂には、江戸時代につけられた名前が今も使われている。
白山下の交差点から巣鴨方面への上り坂が薬師坂である。この坂の途中、白山神社の参道の入り口近くの小さな階段を下りたところに『映画館』がある。開店してからもう、40年以上になる。そういえば学生時代から前を通るたびに気になっていたが、入ったことがなかった。半年ほど前、白山上で買い物した帰りに通りかかった。あたりはすっかり空の色が濃紺に変わり、ビルの谷間にかすかに茜色が残る夕暮れだった。あちこちの店の灯りが次第に明るさを増し、『映画館』の看板と映写機のオブジェも、暗い階段の上に明るく浮き上がっていて、誘われたように40年近く、開けようとしなかった店の緑色の扉を開けた。
『ヒロシマモナムール』『去年マリエンバートで』『大人はわかってくれない』などの大きなポスターが店の壁に貼られ、古いレコードや本が壁や天井の梁に作られた棚に並び、ドアの内側だけ1980年代で時が止まっていた。まるで、知らんぷりして通り過ぎてきた自分を待っていたかのように。壁面のいくつもの柱時計が、音をたてて時を刻んでいた。時計の音は人を焦らせることが多いのに、ここの柱時計の音は時間を逆回転させるのか、聞いていると記憶の深いところにある思い出まで沈んでいく。
店内にはラウンドミッドナイトが流れていて、耳元で演奏されているかのように聞こえる。目についたのは壁一面に据え付けられた木製の超大型スピーカーである。マスターの吉田さんお手製のスピーカーで、こだわりが詰まっていた。アナログプレーヤーはThorens、プリアンプはJBLを使い、さらに独自の細工がされているから、CDを聴いてもレコードのようだ。
Jazz喫茶『映画館』は、各地の名喫茶店を載せた雑誌に登場している名店だった。2018年には台湾のライターがはるばる取材にきた。今は、アメリカとニュージーランドの制作会社がこの店のドキュメンタリー映画を製作中とか。
今日はニーナ・シモンのファールストアルバムが流れていた。
ジャズを聴きながら読もうと思って持ってきた本を広げたが、little girl blueが始まると、メロディにすっかり聞きほれてそのあとは、1行も進まなかった。