15「悪魔」✵「悪魔」の住まうところ②
引き続き「悪魔」のカードについて掘り下げていきます。①はこちら ↓
「悪魔」のカードの性質がより直観的にご理解いただけるよう、まずは「悪魔」として描いた「ディオニュソス」の神話をご紹介しておきましょう。ブドウの栽培とワイン作りを広めた酒の神ディオニュソスは、最高神ゼウスと人間の女性(セメレ)との間の子ですが、①の記事で解説した「火」が誕生にも関わっています。
熱狂的な女性信者マイナスたちは、時に超人的な力を発揮し人を八つ裂きにして生肉を啜ったり。ディオニュソスの従者、サテュロスたちは山羊の角と脚を持った半身半獣で、音楽などの遊戯と酒を好み、粗野で好色、性交を求めてニンフやマイナスたちを追い回します。夜には炉火を炊き、陽気に笛やシンバルを鳴らしながら、酒に酔った忘我状態で野山を彷徨う半狂乱の集団。うっかり出会ってしまった場合には、「やっべ……」と瞬時に目を逸らす(または凝視する)こと間違いなし。ディオニュソスの一行は、ブドウの豊穣や酒の快楽をもたらしてくれる一方で、禁忌(タブー)の宝石箱でもあるのです。
そして、ディオニュソスにまつわるエピソードには、サテュロス以外にも「山羊」にまつわるものが度々登場します(黒山羊の皮をまとっているディオニュソスの姿、など)。「悪魔」のカードが「山羊座(星座は怪物に驚いた牧神パンが逃げる際に変身した姿とされている)」サインの対応であるのは、「山羊」がもたらす生殖や繁殖、快楽や娯楽、野性的な力のイメージとつながっていることもあるのでしょう。
こうした性質は、理性により人間の精神に光を与えることをよしとする、アポロン的精神(=「法王」のカード)と正反対のものです。(ちなみに、ウェイト版の「悪魔」は、悪魔崇拝のバフォメット(山羊の頭)が描かれているとも)
アポロン×ディオニュソス
ドイツの哲学者ニーチェも、ギリシア精神を分析した芸術論で「アポロン的なもの」「ディオニュソス的なもの」として、「法王」と「悪魔」のカードのように相対する二柱の神を取り上げています。
ニーチェは、ディオニュソスが象徴する「恍惚感や陶酔などの情動」や「無意識」「残酷さや不健全」「原始的な生命力や性的衝動」を「ディオニュソス的」とし、「意志」「表層の意識」「理性」「健全」「個別化の原理」を「アポロン的」としているのです。アポロンもディオニュソスも共に預言の神であり、芸術を司る神ですが、ここでも光と影のような二元論として考えられています。
「最も古代ギリシャらしい神」と称えられる、「光明」を司る輝かしい神アポロン。それに対し、呉茂一『ギリシア神話(上)』によると、ディオニュソスは元々小アジアの神であったのが長期間にわたってギリシャに徐々に浸透、主に農民や女性から信仰されたようです。つまり、元々はギリシャの正統な(?)神でもなく、支配者層に崇拝されていたわけでもありませんでした。特定の地域や神殿に留まることなく、頭おかしげな集団を引き連れて山野を自由に駆け回るディオニュソスは、異端的です。
占星術に置き換えてみても、なかなか面白いのです。太陽神アポロンは「太陽」にあてはめられます。一方のディオニュソスは男性神でありながら長髪で女性とみまがうような姿、信徒は主に女性、ワインの栽培など育成や大地に関わる、狂乱と陶酔など情動を煽る、などなど占星術の「月」の象徴が強く、「月」にあてはめてもよいように思えます。
惑星には、「ジョイ」(惑星が喜び、力を発揮する)となるハウス(分野)あると言われているのですが、
男性を表す「太陽」(=アポロン)が喜ぶ場所には、
「宗教(国教)/ 男性神(Deus)の神殿」を表す9ハウス
女性を表す「月」(=ディオニュソス?)が喜ぶ場所には、
「(土着的な)民間信仰 / 女神(Dea)の神殿」を表す3ハウス
に割り当てられているのです。
アポロンもディオニュソスも同じゼウスの子でありながら、(両親が神である)アポロンは「正統派」で、(母が人間の)ディオニュソスは「(国教から見ると)異端的」な側面に対応しているように考えられます。
その一方で、社会で男性に隷属していた女性が(家を飛びだし)恍惚感を伴う半狂乱の状態で、秘儀的宗教の信徒として付き従っていたことから、松村一男『はじめてのギリシア神話』でディオニュソスは、日常から解放された「非日常の神」と考えられています。
ディオニュソスがもたらす力 ― 陶酔、忘我、狂乱、暴力、性的欲情、野心、恍惚、混乱、呪術 ― は、道徳的な「法王」から見ると、人間を堕落させる「悪魔」的なものです。しかし、秩序と法の中に理路整然とした、もしくは自分を抑圧する「日常」から抜け出し、非日常の中で超自然的なものと一体化し、自我を忘れて浸ることも時には必要なのかもしれません。
更に、ディオニュソスの名の語源は「ゼウス(天):diu」「息子:nuso-」から成り立っているという説があります。そして、ディオニュソスの母セメレの名は「大地(地)」を語源と考えられることから、呉茂一は「天と地との子」としてを想定しています。
こうした「天と地との子」としてのディオニュソスの持つ役割を踏まえてみても、「悪魔」はアポロン的なものに対する単純なアンチテーゼではなく、啓蒙的精神に至る途中で、私たちが日常では無意識に押し込めている、動物的な生命力を味わう「抜け道」のようなカードのようにも思えるのです。
悪魔の住まうところ
再び、鏡のような存在である「法王」と「悪魔」のカードに戻りましょう。二人の瞳にご注目ください。
人間らしさ漂う「法王」と違い、「悪魔」はフィルターがかかったような瞳になっています。
人間ではない魔力的なエネルギーを持っているからでしょうか?
生身のものではない偶像だからなのでしょうか?
そもそも「悪魔」など存在せず、絵の中の男女の心が生み出した幻想であったり、それが実体化した欲望の姿なのかもしれません。
このカードによって、自分を縛り付けている欲望や存在―「悪魔」が住まうところを考えるキッカケができるでしょう。
ニーチェが「ディオニュソス的なものこそ、総じて現象の世界全体をよみがえらせる永遠にして根源的な芸術力である」としているように、強烈な「悪魔」は、私たちの無意識に秘められた野性や欲望の根源に気づいたり、その力をチャージすることで、旅を進めるエネルギーともなるのです。(ただし取扱注意)
こうして物語は、まだまだ続きます。