2021.04.02 新しい葉がうまれる
起床すると、きのうまでゼンマイのように縮こまっていた合歓の木の新葉がひらいていた。まだ色彩そのものにすら慣れていないといった風情の、赤ちゃんのうす緑色。触れるとやわらかい。
きっと二、三日もしないうちに、あっというまに大人の葉になる。
春めきも盛りに差し掛かり、部屋の植物たちが先週からぐんぐん新葉を出して伸びている。吊るしているビカクシダたちも、鉢植えたちも、エアプランツたちも、それからケースのなかの苔までも。
ビカクシダ以外はほとんど去年の初夏、緊急事態宣言にまだ慣れていなかった頃に買ったものだ。ひたすら巣づくりに専念していた初夏から秋だった。貧乏なので出来るだけ安く植物を仕入れて増やしたり、それをせっせと植え替えたり、衣替えしたり、アイス食べたり、カレーを煮てみたりしていたのを憶い出す。
約一年で、どれも随分と成長した。この緑たちがそばにいて、枯れずにきちんと生きてくれているおかげで、毎日どれだけ救われているかしれない。
ビカクシダを苔玉から板付けに替えたいと去年からずっと考えていて、とうとう春になったのでやろうと思い、ベッドに寝転がりながらいろいろとビカクシダに関するサイトを見てまわっていたら、18時半には帰宅していたはずなのに21時になってしまっていた。
当初はホームセンターで杉板を買うか、穴あきの鍋敷きを買うかで済ませようと思っていたが、調べてみればみるほどしろうとが適当にあつらえるよりもきちんと仕立てられたビカクシダ用の板をセミオーダーで買ったほうがよい、という気がしてきた。
いいなと思った板はサイズ的には小さめの一枚2700円程度で通販できるが、部屋に吊るしている2玉のビカクシダはそれぞれどうやら2〜3株あつまって生えているようなので、合計で一万円はかかる。
板一枚は安いので、試しに小さいほうを板付けしてみるか。明日か明後日にホームセンターに行って、手頃な材料がなければ通販することに決める。
職場にはきのうからひとがわんさと居る。一年半前に見たのが最後の光景が、きのうから当たり前のようにここにあるのがとてもふしぎだ。どの顔ものびやかに明るい。門にハイパーな体温測定器が設置されていたり、わんさと居るひとびと全員がマスクを付けているというかすかな違和以外、まるで何事もなかったみたいに思える。
大阪はまた増えてきたと言うが、わたしにはあまり現実感がない。家にテレビもない、新聞もない、ニュースサイトもアクセスしない、政治家のTwitterも見ない、ただただ身のまわりのひととの会話からのみ知れる情報はひどく穏やかで、ここにあるのに遠い。
きょうの昼職はひととたくさん喋ったので、きのうよりもくたびれた。
仕事帰りには万代で買い物。空気のなかに夏の気配もするような日暮れだったので夕飯はさっぱりしたものが食べたいと思い、また、鮮魚売り場でキハダのぶつ切り山盛り280円だったので、大葉をどっさり敷いたマグロの漬け丼、中華ピーマン、それからきょうも新玉ねぎとお揚げさんのお味噌汁(新玉ひと玉30円)。
夏の野菜を触るのが好きだとむかしから思う。触れた先のゆびから、まるで全身が濯がれるよう。
こういうさっぱりとした夏の料理をつくる時にながらで観たいのはやはり是枝裕和の映画だなと、観なれた『海街diary』、それから『歩いても歩いても』を。
中学生の時にポスターにひと目で魅入られて当時の親友と遠くの映画館まで観に行った『誰も知らない』以来もっとも好きな邦画の監督のひとり。『誰も知らない』は少ないお小遣いでそのビジュアルを撮影した川内倫子の写真集を買いあつめたほどだったが、それはそれとして是枝作品のあの丁寧な光に縁取られた食事づくりや室内の光景がいとおしい。ずっとずっと眺めていたい。
極論わたしは、映画であろうと本であろうと、ただひたすら「光景」というものが、薄っすらとした懐かしい物語に流されていく、そのようすを見ていられさえすれば幸福なのだ。
是枝裕和や河瀬直美の映画たちは、そういう幸福をいつだって与えてくれる。
叔母からの荷物がわたしに届けられているが何度不在票を入れてもわたしがそれを取らないので叔母が困っている、ときのう母から連絡があり、ここ2週間開けられていなかったポストを開けた。
郵便物をわさっと掴み、けれどもすぐに中身を確認するのが怖くて部屋の隅にまとめて置いたまま今夜はもう寝て、あした確認することにする。叔母の荷物が怖いのではもちろんなく、溜まった郵便物そのものが単純に怖いからなのだが。
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