「それはまさしく寝ても覚めても」/映画『寝ても覚めても』を観ながらかんがえたこと
ひとはたいてい、「思い入れ」から物語に出逢って、触れる。
のちにそれが好きになるものなのか、あるいは嫌いになるものなのか、それは触れたその瞬間にはわからない。けれどたとえば、本屋で或る一冊の本を手にしたその時、ひらいたそのページにもしも自分が見た光景があったり、いま実際に自分が生きている場所が描かれていたり、感じたことのある感情が記されていたら、そのひらいたページを無意識のうちに目が追い、吸い込まれるようにそのシーンの続きを読み、そのままレジに持っていって買って、帰宅してベッドに寝転んであらためて最初から読んでその物語にどっぷり浸かってしまう、そうしてラストまで読んだあともその物語の余韻からいつまでも覚めることができない。と、そんなことがあるかもしれない。というよりきっと誰しもそんな経験があるだろうし、もしなかったとしてもそんな自分を想像することはむずかしくない。
物語のなかに自分を感じること、「思い入れ」というそんな感情は、たくさんの物語に溢れているこの世界から自分が「触れるべき」物語を拾い上げる行為の、そのひとつのルートなのだと思う。
『寝ても覚めても』という作品は2018年の9月の今日この時、ふたつの形でこの世界に存在している。
ひとつは小説の『寝ても覚めても』、そして映画の『寝ても覚めても』だ。そしてこのふたつの存在としての『寝ても覚めても』という物語に、わたしはふたつの「思い入れ」でもって触れることになった。
最初に触れたのは小説の『寝ても覚めても』で、そもそもわたしはこれを書いた柴崎友香という作家の作品自体「思い入れ」から出逢って触れたのだった。柴崎友香はその初期からずっと大阪を舞台にしたものを多く書いていて、大阪を舞台にした小説を書く作家などむかしから数え切れないくらいいるじゃないかと言われるかもしれないけれどわたしにとって柴崎友香の描き出す大阪はほんとうに衝撃的だった。彼女、というより物語を紡ぐその「視点」、その目を通して紙の上に映し出される大阪の光景は、その街は、匂いは、色は、ひとの温度は、そしてつねに細かくリアルに引用されるその場所の名前は、いまを生きるわたしの世界とおそろしいほどにぴったりと重なるのだ。
彼女の小説の醍醐味のひとつは「もしかしたらいまこの街に、こんな人間がいて、こんなことを考えて生きているのかもしれないし、そうしていまこの大阪の雑踏を歩くわたしのすぐ横を通り過ぎたかもしれない」、そんな純粋な感情を、当たり前のように純粋に感じられること。そして実際にわたしは大阪の街を日々歩く度いつも小説と同化して、だからこそこうしていまもなお、この街でふわふわと生きられている。
小説『寝ても覚めても』もそんな、わたしにとって「思い入れのある」大阪の街を、柴崎友香という作家によって、彼女なりの「思い入れ」のもとに大阪(と東京)という街が描かれているのであろうと思いながら読んだ。初読は文芸誌「文藝」に掲載されていた時で、その後にあらためて文庫を買って、時おり本棚から出しては読んできた。掲載されていた時期の「文藝」は確か毎号作家の特集でシリーズみたいになっていて、毎回その作家の肖像写真が表紙に使われていたのを憶えている。その頃のわたしは大学生だった。
「文藝」に小説『寝ても覚めても』が載った頃わたしは大学では文学や芸術を学んだりさぼったり、と同時に大学の外では音楽で夜遊びするのに明けても暮れてもな感じだったりで、ちょうどその時期、インターネットから生まれた新しい匂いのクラブミュージックがその作り手のリアルとともに街にあらわれ広がってきた。そこから連鎖的に繋がった音楽や場所やひとびとはこんな片隅のわたしにとっても、間違いなく、かけがえのない時間であり空間だった。それはやがていま現在の自分へと流れ着く。
映画『寝ても覚めても』の主題歌「RIVER」および映画の楽曲はトラックメイカーでありDJでもあるtofubeatsが手がけている。わたしがスタッフをしている心斎橋のDJバーやその周りのひとびとにとって、関西のクラブの人間にとって、また何よりわたし自身にとって、tofubeatsという"存在"は、とても身近で「思い入れ」のあるものだ。
そんなふたつの「思い入れ」に導かれるようにして、わたしは今日、ふたつの『寝ても覚めても』に触れた。
映画を観た直後の気持ちは、はっきり言って「ただひたすら心地が悪かった」。それはかつて、初めて小説『寝ても覚めても』を読んだ時、その読後に感じた気持ちとは似て非なるものだったと思う。「悪い夢から覚めて、でもまたやがて悪い夢をみる日が来るのだろう」ではなく、「いまもまだ悪い夢を見ているしこれからもずっと見る」そんな気持ちの悪い心地。
それは映画を観ている最中もずっと感じていた心地悪さだった。蓮實重彦がこの映画をどうやら絶賛していたらしいという記事をちらりと見ていたから、わたしはてっきり侯孝賢の『珈琲時光』や井口奈己の『人のセックスを笑うな』みたいな雰囲気の映画に仕上がっているんだろうなと思って劇場に向かったのに、その期待はみごとなまでに打ち砕かれて、とくに冒頭の、2009年頃と思しき大阪の小箱のクラブのフロアで、どう聴いてもtofubeatsの曲でしかない曲でお客たちがワルツかチークダンスみたいに踊り出すのが衝撃的すぎて、しかもあの麦がDJをしていて(まるであの、なんのやつだっけ、ちょっと前にテレビCMで流れていた、2枚のレコードだけ買って、友達を誘ってクラブに行って、それで自分のDJを友達に披露するというちょっと陳腐なストーリーのCM。あれみたいな)、そこからタイトルを経て東京のシーンに飛ぶまで、スクリーンに映る光景がぜんぜん頭に入ってこなかった。
集中力はそんな冒頭の大阪のシーンではじけ飛んで、次いで役者たちの口から発されるまさかこんな言い回しや発音はしないでしょうと思わずつっこまざるをえない大阪弁を聴くうちにすっかり霧散し、で、この得体の知れない「心地悪さ」は一体何なのだろうと、映画のはじまりから終わりまで2時間ほど、わたしは観ながらずっと考えていた。
はっと、まるでまさしく目が覚めるようにしてわたしが「気がついた」のは、物語がクライマックスに向けて速度を上げはじめた、主人公の朝子と大阪での親友・春代が東京で再会するシーンを観た瞬間だった。
朝子の「いまの恋人」である亮平を初めて目にした春代が、驚きの表情で彼を見つめたそのシーン。三人で高層ビルの喫茶店でお茶をして、その後亮平だけが席を外したその時に、春代は明言するわけではないけれど、「いまの恋人」亮平と「かつての恋人」麦、彼らが瓜二つの人間じゃないかと、はっきりその目で語るのだ。そうしてそれ以降、麦と亮平のふたりは、間違いなく「誰が見ても同じ顔である」という共通認識の上で物語がすすめられていく。
それを感じたその瞬間、わたしはこの映画が、というかこの映画を観て感じるその心地悪さが、じつはこの映画のなかではまさしくそう感じなければいけないものなのかもしれないと気がついた。
「それなりに男前やーん。あさちゃん、面食い直ってへんな」 春代は屈託のない笑顔だった。目尻でつけまつげが跳ねていた。「えー、……いや、そうかな」「しかもさー、麦くんとなんとなーくおんなじ系統やん。人それぞれ好みの顔ってあるよねー」「春代……」 テーブルの上を見渡した。わたしと春代の梅酒。亮平のビールの緑の瓶、豚の角煮、ピータン粥、麻婆春雨、くらげ。箸を揃えてテーブルに置いた。「なんとなく?」「うん。雰囲気的に被ってるっていうかー。そんなことない? これ、おいしいね」 春代はわたしの前にあったピータン粥を蓮華ですくって食べ始めた。「似てない?」「似てるって言うてるやん」「そうじゃなくて、もっと、ほんまに似てるっていうか、そっくりと言っても過言ではないというか」 以上のような内容について、音声として言葉にして自分の外に出すのが初めてだったので、恐ろしい事態に陥っているのではないかと不安になった。春代は蓮華を握って口を開いたまま、不審そうな顔でわたしをじっと見てから、言った。「違うやん」 そして、ふわふわの鞄から携帯電話を取り出してかちかちボタンを押したあと、画面をこっちに向けた。「だって、麦くんてこれやで」 ー小説『寝ても覚めても』
「こんなんやで。顔の系統を分類して図鑑に収録するのやったら近くのページにはなるやろけど、亮平くんは目もくるっとしてるし鼻もしゅっとしてるし背中もぴしっとしてるし、なんていうか、丈夫そうやん」「ほんまに? そら今の麦はちょっと感じ違うけど、前、大阪におったときの麦は……」「こんなもんやったで。写真で見比べてみたら?」「一枚もないもん、麦の写真」「そうなん? あさちゃん、写真撮ってなかったっけ? っていうか、あさちゃん、元彼とそっくりやからってつき合ってるってことー? 似たような顔やったら性格まともなほうがいい、みたいなー? それはないで」「違う違う違う、違うって。なんか、亮平が、周りの人から似てる似てるって言われてうっとうしいらしいから」「えー、みんな目ぇ変なんちゃう?」 ー小説『寝ても覚めても』
映画での三人のお茶のシーンに小説『寝ても覚めても』が対応するのがこの部分だ。中華はお茶に変わっているしそこへ至る再会の流れも異なっているけれど、誰が読んで観てもここだとわかる。ここで、あ、小説と映画はちがう、とわたしたちは気がつくはずなのだ。
小説『寝ても覚めても』の一番のミソは、文庫解説で豊崎由美も指摘する〈麦に盲目状態になっている朝子の、読者にとっては正しい情報を与えてくれない「信用できない語り手」としての貌を少しずつ露わにしていく作者の筆致〉だ。小説では、麦と亮平が「真に」似ていると感じているのは朝子だけ。そもそも小説という物語の表現形態では、そこにおける人称や視点の選択から、読者はおのずと「麦と亮平は似ている」という朝子のそんな視点でしか物語を眺めることができない。加えて、文字のみで表されているその世界では、誰もが"想像でしか"彼らの相貌の酷似を思い描くことができない。描写によって導かれるイメージは最大公約数的に読者間で似通うかもしれないけれど、実際に自分の目で「彼らがほんとうはどんな容姿であるか」というのは、小説という表現形態においてはぜったいに確かめることができないのだ。
わたしたちは彼らが同じ顔であると想像する=信じることしかできない(それこそまるで麦の写真を一枚も撮っていない朝子のように)から、だからこそ、信用できない語り手という構造に絡め取られ、またその醍醐味を味わうことができるけれど、しかし映画ではそういうわけにはいかない。
映画という表現形態では、「麦と亮平は東出昌大という同じ人間が演じているから、最初から顔が同じで当たり前だし、ほんとうに似ている」という、いわば「目が覚めた後の視点」でしかこの物語を見られないのだ。であるからこそ、映画『寝ても覚めても』は小説『寝ても覚めても』がもつ構造のミソを棄て、小説とは「まったく別の物語」を描いていく。
小説『寝ても覚めても』では、麦と亮平が同じ顔だと思っているのは主人公の朝子だけ。
映画『寝ても覚めても』では、全員が、麦と亮平は同じ顔だと思っている。
そう考えてみた時わたしはもうひとつの大切なことに気がつく。
原作小説(かつての恋人:麦)に強い思い入れをしたまま映画(いまの恋人:亮平)を観たら、同じ顔だと思っていたのに、じつはそれらはまったく違う存在だった。と、いうことに。
「原作小説とその映画という関係性」について、ふたつの『寝ても覚めても』に触れた人間はきっと必ず目を覚させられると思う。小説と映画が「同じ物語」であるのだなどという認識はこのふたつの『寝ても覚めても』を前にして、それはまったくの思い込みであり盲目的恋愛構造なのだと思い知らされてしまうのだ。
はっとしてのちあらためてスクリーンを前にしてぞっとする。映画『寝ても覚めても』が明らかに小説『寝ても覚めても』とは正反対の軸で作られているのがわかってくるからだ。
たとえば、まず物語全体のバランス。小説では朝子が大阪で過ごしていた日々はけっこうな分量を割いてじっくりていねいに描かれているけれど、映画での大阪の日々は淡々と必要なシーンだけが切り取られてあっさりと終了し、反対に東京で過ごす朝子の世界のほうに重点が置かれ、東京の生活がていねいに描き出されている。その物語全体のバランスのせいもあって、小説ではとても魅力的に描かれていた浮世離れした可愛い麦が、映画ではただの汚い変人というふうにしか見えなかったし、一方亮平のほうは、小説ではなんだか冷たい感じもする若干おもしろみのない男だったのが、映画ではとても気持ちの温かい優しい魅力的な男に見えて、わたしは小説では麦と朝子が再会して逃避行する時が読んでてとても嬉しかったしふたりがまた恋人になることを望んでいたのに、映画では怖い麦となんか再会してほしくなかったから亮平と離れてほしくなかったし、朝子に棄てられたその後の亮平のあまりに可哀想なそのすがたを観せられたくはなかった。
ほかにも小説と映画では正反対な点、というか、次元の違いがいくつか示される。小説でも映画でも「時間の経過」という概念に対して敏感である姿勢それ自体に変わりはないのだけれど、小説『寝ても覚めても』では〈五月になった〉〈二週間経った〉〈三年経った。二〇〇五年になった。七月になった〉と数字だけで淡々と時の変化を読者に知らせるのに対して、映画『寝ても覚めても』ではラジオから秋葉原の通り魔殺人の話が漏れきこえてきたり、iPhoneのショートメールからLINEへの移り変わりを接写でわざとらしく見せてきたり、そして何より東日本大震災という巨大な記号をぶちこんできたりする。小説における地震についての記述は、〈夕方地震があった。震源は千葉県北西部、地中七十三キロ。地震の規模はマグニチュード6.0。わたしはバスに乗って走っていたから、気づかなかった。渋谷駅西口でバスを降りたら、あるいている人たちの動作がなんとなく不安定で、駅員も走ったりしていて、だけど地震のことを知ったのは、ハチ公前に来たマヤちゃんに教えられたからだった。それから五時間経って、壊れた物も見当たらないし、やっぱり地震はなかったような気持ちになっていた〉とあるのみ。しかも、朝子的には「なかったかもしれない。わかんない。そんな気がする」というあやふやな、まさに夢のなかのできごとみたいに描かれている。
時間の経過と「彼らの現在地」を、社会情勢や当時のアイテムでもって観客にわからせようとする映画『寝ても覚めても』。その手法は一見すると陳腐で通俗的にも感じられるけれど、たとえば『春琴抄』における盲目的な恋=当事者を取り巻く社会情勢に対する盲目な描写、といった文学的手法の裏返しのようにも見えてくる。小説の朝子や亮平は、きっと映画の彼らのような積極的な社会参加だなんてぜったいにするはずがなかった。そうしてみると物語のラストで、小説での麦と朝子は南の白浜を目指すのに映画での麦と朝子が北海道をめざすというのも、どう考えても明らかな構造的ヒントなのだった。
そんなふうにつらつら考えながらみていたら、冒頭のクラブのあまりにダサく現実味のない描写も、もしかしたらこの映画ではそうせざるをえないのではないかという気がしないでもない。
と、ひととおり映画を観ながら考えていたことを吐き出すように書き出してみたわけだけれど、ひとつ何より感じたのは、映画『寝ても覚めても』はより「時間」と「社会」に重きを置き、小説『寝ても覚めても』はより「空間」と「個人」に重きを置いているということだった。そして「思い入れ」という罠、それが生み出す快と不快。「思い入れ」のある原作小説を読んだあとに観る、その映画化の「現実」。それは、まさしく夢そのもので、映画そのものなのだと思ったし、そういう意味ではこの映画の宣伝文句「新世代のヌーヴェル・ヴァーグ」であるのかもしれないとも思った(かもしれない)。
しだいに暗く沈んでいくシアターと、スクリーンという網膜に映し出される光のたわむれ。投射・反射しあう時間と空間の幻影。それはかつてヒッチコックが、これもまた「同じ顔をもつ恋人」をモチーフに撮った『めまい』が示す映画=夢の図式を呼び寄せたりもする。その図式は映画『寝ても覚めても』のラスト、疲れ果てた亮平と朝子が横並びで川を眺めるというあのショットからも感じられる。そのシーンにおいてわたしたちは、彼らのおそろしく空虚な大きな瞳に意識のすべてを吸い込まれていく。
そういえば川という存在は、時間と空間の両方の世界を流れていくしな。と、そういうことを考えながらわたしは映画を観て、それでなんだか混乱してちょっとこうして書き残してみた。
まとまりがないままほんとうにただの備忘録みたいになってしまっているけれど、映画『寝ても覚めても』で目を瞠ったのは何より東出昌大の演技で、彼の演技によって「同じ顔をしているのに、ふたりはまったく似ていなかった」。横断歩道の信号が変わるのに気づいてビクッと足踏みするところや、朝子にくつしたを脱がせてもらって吐くため息はすごく色っぽくて生っぽくて好きだと思った。あと、この映画の清涼剤はまちがいなく春代だったし、シアターで唯一笑いが起こったのは春代が「麦と写真を取る時間だけはちょうだい」としわを寄せたいかつい顔で朝子に話しかけるシーンだった。ウニミラクルが服屋兼カフェじゃなくてただのカフェになってたのは悲しかったけれど、その代わりに猫のじんたんはずるいと思った。けれどこうして小説『寝ても覚めても』と映画『寝ても覚めても』を比べたり、また同じところを見つけて喜ぶそのことこそ、まちがいなく無垢でまっすぐな「思い入れ」で、そしてこの文章を書いているわたしはどんどんあの危なっかしい朝子とそっくりの頭のなかになっていくし、ふたつの『寝ても覚めても』は、まさしく寝ても覚めても夢をみているかのようだし、なんにせよわたしは寝ても覚めてもこの「物語」が好きなのだと思った。
*『寝ても覚めても』という作品は、なぜなのか、まだうまくは言葉にできないのだけれど、ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』を思い出させる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?