前提として私、緩和ケア苦手なんだけど
いっそのこと死ぬところまで見届けられたら気持ちが楽かもな…
という思考が脳裏に浮かんだ。熱めのシャワーを浴びながら、8月のある日。
前記事で述べたように、今私は看護師のメンタルケアの問題に関心がある。というか悩んでいる。
身体だけでなく感情も揺さぶられるこの労働環境でどう自身の気持ちをコントロールするべきか。感情労働の負の側面にぶち当たっている。白い巨塔の北側、陽の当たらないその広大な壁面に潜むブラックホールに飲み込まれているみたい。
表題の件について、その根拠は以下。
散々時間をかけて「限られた予後をどこで誰のサポートでどのように過ごすか」云々話した挙句、終盤になるとベッドコントロールの狂乱に巻き込まれて、半ば畳み掛けるように押し出す流れ。あれだけネチネチ話したのに、結局最後は早く出てってくれないかな〜みたいな不謹慎な感情を抱いてしまう。なんなら転院までのカウントダウン。この感情すら非人道的ですまんという気持ちになる半面、それも仕方ない労働環境なんだよ勘弁してくれという気持ちでもある。
なんだろうか、お局たちの崇高な看護観に振り回されると同時に、終末期への至り方に可哀想にという心苦しさ。そこにつけて亜慢性みたいな状態までみる羽目になり、やり切れなさを抱いて送り出す。そして残るのは、謎の不完全燃焼感。
だったらいっそのこと死ぬところまで見て、いい最期だったねって(必ずしもそうでないとら思うが)達成感といったら表現が不適切かもしれないが、そういう感情になれるのかな、と。残された家族にお疲れ様でしたって声かける方が、私の心身の苦労少しはも報われる気がする。
急性期をみたくて、急性期病院にいるのに。
なぜ慢性に片足突っ込まなきゃいけないんだろう。
私の愛読書は、夏川先生の「神様のカルテ」だが、今思えばあの主人公もそんな行き場の感情の渦にのまれ、頭痛に苦しんでたのかなと。今の私なら、キャリアを投げ捨てて末期癌の患者へ安曇野の景色を見せてあげる、あの奇行の動機を理解できる。
感情が暴走して
記事の締め方が分からなくなってしまった。
そう、私の考えは未熟にも
ここまでしか及んでない。
まだもう少し考え続けたいと思う。
また何か思いが浮かんだらここに記そう。