アサリさん
スーパーでアサリを買い、砂抜きをしていて困ってしまった。
塩分濃度は3パーセント。
バットにアサリを入れ、ひたひたの塩水を入れる。しばらくすると貝からは本体がにょきにょきと飛び出してきた。
カタツムリに似ている。
いくつかの個体が目を出すかのようににょきにょきと飛び出してきて、一番活きのいい個体がピュっと塩水を吐き出してきた。
同じアサリでも個体によっては貝の柄も大きさも色も違う。個性があるんだと思った。
冷凍物のあさりの貝は全て色も柄も区別できないほどに揃っていたのに、今日スーパーで買ったアサリはそれぞれに違いがあって面白い。
活発ににょきにょきとする個体。怯えたように少しだけ貝を広げる個体。私はそんな彼らをしばらく観察していて、困ってしまったのだ。
なぜなら今彼らは生きている。
明日の味噌汁のために買ったアサリだが、果たして私は彼らを味噌汁の食材として使えるのか、全く自信が無くなってしまったのだ。
ここ最近アサリを食す時、実家で調理済みの物を食べていた。どうしても自宅で食べたい時は冷凍のアサリを買っていたからこんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。
子供の頃に潮干狩りに行った時は、新鮮なアサリを食べ物として見ていたし、10年ほど前まではスーパーで買った生きたアサリを普通に調理していたのになぜだろう。
今の私は、彼らを生き物として『かわいい』と認識してしまっている。
「明日の味噌汁に使うの、かなり勇気がいる。これって生き物じゃない。どうしたらいいの?」
一緒に観察していた息子に問うと、息子は、
「確かにこんな姿を見たら食いづらいな。……でも食べるしか仕方ないよ。ありがたく味噌汁をいただこう」
そう言って苦笑いをした。
「……私、多分食べられないわ。料理できる自信もない」
「オレは責任持って食べるよ。これは食べるべきでしょ」
「飼ったらダメ?」
「まじで!? 飼えないでしょ。エサは? 普通に無理でしょ。これは食材なんだ。考えたらダメだ!」
確かにそうだと思った。私はアサリの味噌汁を食べるつもりで買ったのだ。飼い方も知らないのに何を血迷ったのか……。
私たちは再び活きのいいアサリを見つめた。
記念に写真を撮ろうとしてスマホを向けると、シッポの方まで出してのびのびとしていた個体が、亀が甲羅に身を隠すように貝の中へと入ってしまった。身の危険を感じたのか、なかなかに感の鋭いアサリだと思った。
つまり、今彼らは生きている。
「そうやって栄養にするんだよ。人間は」
「人間はアサリ以外でも栄養は取れるし!」
私は年甲斐もなく、まるで、どこかから捨て犬を拾ってきて『お母さんウチで飼ってもいい? お願い! ワタシちゃんとお世話するから!』 と駄々をこねる子供みたいになってしまった。
貝独特の旨味がすごいアサリの味噌汁を楽しみにしていた過去の私もいたけれど、砂を吐き出すアサリたちを見るうちに味噌汁より飼いたい欲求の方が勝ってしまった。
アサリの砂抜きなんて観察しなければ良かった。
私はネットでアサリの飼い方を調べてみたけれど、到底上手く行きそうには思えない。海のない我が家で果たしてアサリは幸せに生きていけるのだろうか。ちゃんとお世話ができるのだろうか。自信もないのに中途半端に揺れる私……。
こんな気持ちになるのなら、アサリなんて買わなければよかったと、現実逃避をするかのように床についた。
しかしアサリが気になり再びキッチンへと行き、暗い中で浸されたアサリを確認してみた。
にょきにょきの個体が沢山いる。しっかりと見たくて電気をつけると、にょきにょきと伸びていたいくつかの個体がそろって亀みたいに姿を隠した。
もしかするとアサリは夜行性なのだろうか。先程スマホを向けた時、亀みたいに閉じこもったのも光が苦手だからなのか……。
ネットで調べると彼らは夜行性らしかった。
暗い方が活発に砂を吐き出してくれるらしい。
もう私はアサリの事で頭がいっぱいになってしまった。明日の朝、私は彼等をどうすればいい? 知恵熱が出そうだ。
……眠れない。
もう二度とアサリは買わない。
こんなにも悩むのなら、出会わなければよかった。