桜の木はまだある
北側の居室の利用者様は、この時期に咲く桜の花を窓から見られることを楽しみにされていた。
居室の窓から桜が見られない利用者様をここへとお連れすることもあった。何年も前の話だ。
私がいつも昼休憩を取っている屋外北側にある木製のベンチ。その正面の石垣の上には大きな桜の木があった。それは当たり前にそこにあって、見る者を癒してくれていた。
蕾を付ける頃から満開になるまで。桜が散る頃も桜吹雪が美しく、この時期は、そこで昼休憩をすれば花見もできる楽しみがあった。
もう何年も前に桜の木は切られてしまった。
何故切ってしまったのか。残すことはできなかったのかと、未だにこの時期になると怒りや悲しみといった負の感情が込み上げてくる。
ここに桜の木があったという話をする利用者様もいなくなった。
私にとって癒しの空間である屋外北側のベンチからは、裏山と空が見渡せる。桜の木は、思い出の中でしか咲いていない。
桜の木があった頃、今では人気のないこの空間は、休憩時間になればまあまあの人が集まっていた。遅れて来れば座るベンチがなくなり、コンクリートの地べたに座る者もいた。くだらないことで笑い合い、今では信じられないほどの賑やかな空間だった。
桜の木はなくなったし、桜の木があった頃を知っている職員もほとんどここにはいない。ひとり、またひとりと、居なくなる仲間を見送ってきた。
この空間は、今でも毎日通いたいと思う癒しの場所には変わりない。でも桜の咲く頃はなんだか寂しい気持ちになってしまう。
目上の山からウグイスの鳴き声がしてこない。
朝は鳴いていたはずなのになぜ昼は鳴かないのか。去年は雨の日の昼でもしつこいほどに鳴いていたはず。まだ時期が早いのだろうか。ウグイスも疲れて昼休憩でもしているのかもしれない。
そんなくだらないことを思いながら、いつも通りの左側のベンチの左端に座って、ぼうっと晴れた空を見上げた。吹いてくる風はまだ少し冷たい。
鼻がむず痒くなって、遠慮なく豪快にクシャミをした。女捨てました? と言われても仕方の無いクシャミだ。鞄から花粉の薬を取り出し、コーヒーで流し込む。
右側のベンチの右端に腰掛け、お弁当を食べ終わった同じユニットのおじさんが、あ〜! と言いながら伸びをした。遠慮もない無防備な伸びっぷりだ。
「気持ちのえー天気だな~!」
ただの独り言なのか知らないが、この空間には彼の他に私しかいないので、
「そうですね~」
と共感しておいた。
このおじさんとも、4月から別々のユニットとなる。
私が相棒だと心の中で密かに呼び慕っている彼は他ユニットへと異動になってしまった。
相棒は、例えるなら、私の痒いところをかいてくれる存在。たまに痒くもない所をかいてきたりしてイラつかせることもあったが、それ全てを含めて彼の存在は大きなものだった。
まさかの異動だ。
4月から彼はユニットからいなくなる。それでも私は心の中で、彼を相棒と呼ぶのだろうか。その時にならないと分からないな、と思う。
「春ですね・・・」
「・・・春だね」
相棒が、山に向かってウグイスの鳴き声を口笛で奏でた。
ホーホケキョ・・・。
今のウグイスよりも上手い鳴き声を披露してくれる。
この時期になると、相棒の口笛のホケキョと、ウグイスのホケキョが響き渡るのだ。
まるでどちらが上手いのか競っているかのようで心の中で笑ってしまう。
「異動ですね。また1から大変ですね」
せっかく今のユニットで上手くいっていたのに。この異動は本当に必要な異動なのだろうか。利用者様にとっても私達にとっても、なくてはならない存在だったのに。
「・・・まあ、気楽にがんばるよ」
「そうですね。応援してます」
「ありがとう」
相棒はまた、口笛でホケキョを奏でた。
山から返ってくる鳴き声は、カラスの「カ~!」というものだけだ。ウグイスはやはり休憩中らしい。
あと少し時が過ぎれば、ウグイスの方が成長し、相棒の口笛では本場物のホケキョに勝てなくなるだろう。去年もそうだったから。
相棒はベンチから立ち上がると、
「じゃ、午後からもお願いします」
と、いつも通りの挨拶をし、口笛を吹きながら去っていった。
口笛で奏でるエーデルワイスが、風に乗って聞こえてくる。
いつも通りだ。
なんとなく、あそこにあった桜が、まだあるような気がした。