アニメはいつでも最強なのだ。
くるくるくるっと回る女の人と、キラキラ眩い映像が映ったテレビ画面。キューティーハニーの変身シーンだ。わたしが覚えているアニメ記憶の中で、おそらく最古のものだと思う。
ある程度生きていると、覚えていないことばかりだなぁと気づく。今までに運動会や学習発表会、修学旅行、家族旅行、たくさんのイベントがあった。そのときは大イベントだったはずなのに、どこに行った。何を話したかよりも、バスの隣は誰だったとか、持ち寄ったじゃがりこを食べ比べて胃もたれしたとか、そんなことばかり記憶にある。
アニメもそうだ。話の内容は覚えていないのに、キャラクターたちが走っているオープニングや、女の人が泣いていたシーンだけ覚えている。
わたしはアニメ大好きと自覚しているわけじゃないけれど、身近にある娯楽として慣れ親しんできたと思う。
パッと思い出せるアニメ↓
最近は、魔法騎士レイアースが新アニメ化されると知って、懐かしさと嬉しさでわくわくしている。メインキャラクター3人の少女の内、わたしは風ちゃんというお嬢様キャラの子が好きだった。前後の話がわからなくても、風ちゃんが表紙の漫画だけ買ってもらい満足していた。
↓緑色の彼女が風ちゃん
この頃、我が家のユーチューブに突如あらわれたアニメを1話ずつ見始めている。
「とっとこハム太郎」だ。
お父さんの仕事の都合で引っ越してきたヒロ子(通所ロコ)ちゃんと、飼われているハムスター「ハム太郎」のそれぞれの日常が描かれている物語だ。
わたしが小学生の頃に見ていたアニメだったはず。見始めたときには何話も進み、登場人物が勢揃いしていた。だから、1話はどんな始まり方なんだっけ?という興味から再生し始めた。
見てみると、もう、なんていうか、めちゃくちゃかわいい…。
わたしは興味のないことには冷めていて、興味があることには興奮、口数が増える典型的な人間だと再確認してしまった。
蓼科テディベア美術館に行ったときもテンションが上がり、かわいいを連呼しまくったことを思い出した。丸くてちっちゃくて、かわいいものが好きなんだなぁ。
上に貼った動画のサムネイルから、ハム太郎たちのかわいさが溢れているのではないかと思う。
みんな、ちっちゃい。表情豊か。目がキラキラしている。ちっちゃくてかわいいが集まっていると、さらにかわいいのである。
ユーチューブでは5話まで見ることができ、ひとつが前編・後編に分かれている。わたしは今のところ第3話前編がお気に入りである。
みんなが好き勝手遊び、最後には泣いて騒ぐところが最高にかわいくてしょうがない。
子どもがいないので想像だが、とある日の保育園か幼稚園の大波乱の日みたいである。
はぁ〜〜〜かわいい。
1.5頭身くらいしかない。ちっちゃい。一生懸命走っている。かわいい。みんな同じ表情で驚いたり、タイショーくんの言うことを素直に信じたり。
くしくしっ、へけっ。
かわいいがすぎる。
ハム太郎を見ている間中、あれかわいい、やれかわいいと言いまくっている。夫にはウザがられていると思うが、何も言わずにいてくれるので感謝感謝である。
アニメを見たあとは、語尾に「(な)のだ」を付ける遊びをすることがある。
ハム太郎かわいかったのだ。
お菓子を食べるのだ。
ねむいのだ。
これだけで、自分もちっちゃくてかわいくなった気がする(気がするだけ)
ふと見ると、机の上には夫が使ったティッシュや、食べ終わったヨーグルトの容器が置きっぱなしになっている。
いつもなら「置きっぱなしだよ!片付けて!」と言って少し不穏になったり、すぐには片付けてくれなかったりするところを
「ごみを片付けるのだ」
と言うだけで、あーら、なんてかわいいんでしょう。のだ、を付けようと思うと、心なしか声のトーンも優しい。かわいらしくなっている。
リビングが嫌な雰囲気にならず、夫もポイッとゴミ箱に捨ててくれる。
なのだ、様々。
ハム太郎様々、である。
今も昔も、アニメは見て楽しい。聞いて楽しい。からっと面白いものから、奥が深いストーリーのものまである。命の尊さをアニメから学ぶこともあるだろうし、懐かしさというものを感じられるのもアニメだと思う。当時の自分とアニメがセットになって結び付けられ、記憶に眠っていたものが呼び起こされたときの感動ったらない。
そしてアニメは、我が家の「平穏」のために一役買ってくれる素晴らしい存在となっている。
今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるよね。ハム太郎!
へけっ。
明日もアニメを見るのだ!
(なーに言ってるんだよ、と思っていたロコちゃんの決め台詞も、今となっては大事なマインドだと大きく頷いてしまう)
もしサポートいただけたら、部屋の中でものすごく喜びます。やったーって声に出します。電車賃かおやつ代にさせていただきます。