大人
友人が勤務を終えるまでの間、待ち時間が2時間ほどあるので言葉を放出しちゃうよ。朝のはなし。朝、電車に乗ってうとうとしていたら、小学生3人のドタドタした足音。みんなリュックを背負っていたから、遠足だったのかな?正直うるさいなあと思った。でも、見ているうちにうるうる。この子たちは大きくなったら辛い恋や将来への不安を抱くのだろうな。今は男だとか女だとかを意識せずお互い関わっているのだろうけど5年も経てば意識し始めるのだろうな。色んな葛藤がありながら自分の個性を経験によって伸ばしていくのだろうな…と考えていたら、涙。楽しいから笑う、走りたいから走る。その真っ直ぐな3人を見て、私は25歳なのだと強く感じた。最近まで自分も10代だったように思う。月日の流れは早いぞと、心の中で。彼らへ、変に大人ぶる大人になりきれない女が伝えさせてもらった。
もう、大人なんだからさ。
私が言われたらとても悲しくなる言葉。大人なんだから、常識を弁えて何でもかんでも行動しなくてはいけないの?大人って、自由なものじゃないの?それでも私が45歳くらいになった時、同じように25歳の人にそう言ったりしてしまうのだろうか。年を重ねるとは。
この間、"僕たちはみんな大人になれなかった"という映画を観た。主人公の佐藤は、かおりという女性と付き合った過去がある。その人は、佐藤が自分よりも好きになってしまった女性。佐藤がかおりの放つ「君って本当に普通だね」という言葉に、謂わば呪われながら生活している模様を描いた(すごく大胆に端折りましたし私の勝手なイメージ)作品。
(今カフェにいるのだが女性の甲高い声がとても気になるのでイヤホンで音楽を聴くことに決めた。BGMはtoe。)
でも対照的に、「普通がいっちばんだよ!」と言う女性も、作中出てくるのです。普通という概念、厄介なものだなあと。普通でいたい人間、普通が嫌な人間、普通で良い人間。どんな人間にも普通という基準はあるかもしれないけれど、どんな人間もその普通という基準はぴったり合うことなどないと思うから。佐藤の普通とかおりの普通は違うので、かおりにとっての普通を佐藤に放出することは、言い過ぎだが狂気だなと。けれども佐藤はかおりのことを、自分のことより好きになってしまったから。かおりの言葉は、自分の信仰している宗教の聖書に書かれた神聖なる言葉のようなかたちで浸透しているのだろうな。神聖と邪悪はもしかしたら近いのかもしれない。
この映画のタイトルは「なれなかった」と過去形だから、なれずに終わったのか、それとも大人になって「しまった」のか。「なれなかった」と言っているけれど、「大人」というフレーズにどこか寂しさを残すような映画だった。僕たちはみんな大人に「なりたくなかった」んじゃないかとさえ思った。これは、私が「大人」というフレーズに抵抗があるからそう感じてしまうのだと思うが。
まだクソガキと言われたほうが嬉しい。おこちゃまと言われるのはやだけど。(そういうところな)
(イヤホンをしていても女性の甲高い声が聞こえる。もはやとても通るその声が羨ましくなる。)
とにかく私は大人という言葉を心地よいものにしたいのだ。それは私次第でどうにでもなること、本当はわかっているのよ。だから私、決めました。大人になる。