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いつの間にか、プロフィールに書く年齢の10の位が「1」じゃなくなってた。

私は大人になった

私は大人になったのだ。
だが、私は「オトナ」ってやつになっていない。

私は大学生だ。真面目に勉強するでもなく、むしろ授業にはたまにしか出ていないし、オンラインの授業になって会議アプリに入るだけ入って、動画を見たり、ネットサーフィンしたり、時には寝たりしている。かといってバイトに精を出すわけでもなく、サークル活動をするでもない。何もしてない。にもしていないの、プロフィールに書く年齢の10の位が「1」じゃなくなってた。書き換えたのは6月の下旬に入ろうとしている時。しかし、2021年を迎えてすぐに、私を定義づける数字は変化していた。この数字を見て思いつくのは大人だ。小さい頃、自身での決定では、何も社会に対して変化を与えることができず、大人ってやつならできるはずなのに私には何もできない 、とあんなにもどかしく感じていた大人になったのだ。しかし、そこに何も変化はない。私はまだ、「オトナ」になってはない。

私の数値を変化させた夜、既に「オトナ」になったはずの友人とコンビニに行った。これみよがしにビールを購入するが、求められたのは「オトナ」でなくても押すことができる「未成年ではありません」のタッチパネルだけであった。これ以前にそのボタンを押していたのかもしれないが。私が大人であることを証明をするための携帯の裏のホルダーに入った学生証は息を潜めた。「オトナ」であることは誰も証明してくれない。

 ただ、私を定義づける数字が一つ増えたというだけで、なぜ急に大人になれるのか、甚だ疑問である。キリのいい数字だからだろうか。かつて日本では武士は12、3歳になると元服と言われる通過儀礼を行なった。この時、彼らは大人になり、真に「オトナ」であることを求められたのである。私たちにも、そのような通過儀礼はあるが、「オトナ」であることを求められているのか、それとも大人であることの規範を守ることを求められているのか、よくわからない。そもそも、私はその通過儀礼を確実に受けていない。その上、それが行われるときまだ19であった。彼らは大人になっていたが、「オトナ」にはなっていない。

これまで、私が歳を重ねるごとに、学生の称号は昇格し続けてきた。幼稚園児から小学生、中学生、高校生を抜けそして今の大学生へと。そして、今回「オトナ」という称号を得たのだ。この称号は、実態を持たない。学生を区分する称号は、これまでの生活は学校へ行くということを通じて私を保証し続け、保ち続けた。私はそれに沿って、私を作っていた。しかし「オトナ」は、何もその規範がない。というよりも規範が大き過ぎて掴みきれない。私が学生のそれぞれを定義づけてそれを演じるように、私は「オトナ」を定義づけ「オトナ」にならなければならないのか。私は一生「オトナ」にはなれないのかもしれない。

「オトナ」のふりをした大人

はっきり言おう、私は成人したが、「オトナ」にはなっていない。私のような「オトナ」になっていないが、「オトナ」と呼ばれる人はいるのではないだろうか。私がすぐに思いつくのは、教師である。無論、これまで関わってきた教師に「オトナ」はいたし、私が尊敬する人間がいたこと先に断っておく。しかし、「オトナ」を標榜する教師の中に「オトナ」とはいえない人間がいたことは事実であるし、そのような話は多聞くことが多い。「オトナ」を象徴する彼らに私たちが子供だったときに、であったことは悲しい。これによって、私たちは社会を知り、諦めを知ったのかもしれないが。また、私たちと同様に大学に通い、教育課程を進む彼らが「オトナ」の代表たる例になると思うと恐ろしい。彼らは「オトナ」を演じるのだろうか。演じてくれれば良いのだが、演じることを諦めた人間を見たくない。

接客に関わるアルバイトをしていると、「オトナ」のふりをした大人がたくさん出てくる。ただ、年齢的に、肉体的に、身体的に大人になったものたちだ。彼らの多くは大人であることを自覚しているであろうが、「オトナ」出ないことの自覚を持っておらず、「オトナ」になろうとしないのだ。私は今そうなのかもしれない。「オトナ」でないことの自覚はあると信じたい。

 しかし、ここで「オトナ」はそういうものなのかもしれない。という考えがよぎった。私は「オトナ」に期待を抱き過ぎているのかもしれない。私は比較的というか、かなり人に対して期待していない。だが、「オトナ」という抽象的なものに対しては期待しているし、理想像を作り上げているのかもしれない。彼もたぶん「オトナ」ではないだろうと思いながら、大人と接するのだ。その一方で、私の周りには「オトナ」が多いことも事実である。高校に進学してからだろうか。私の近くには既に「オトナ」のように見える人が多くいたし、関わる大人は「オトナ」が多かった。出会う場、環境によって「オトナ」の数は変わる。私が「オトナ」に対して、恣意的な線引きをしているからであるが。私は「オトナ」を定義づけなければならないといったが、もうすでに私の中で定義付けは始まっているのかもしれない。「オトナ」を定義することは難しいが、その定義から外れているかどうかを判断するのは容易である。私が今「オトナ」でないことは明白だ。

大人になった私は「オトナ」になりたいと思う。

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