今日もあなたと笑っていよう
今年の梅雨入りは、ここ10年で一番遅かったらしい。
それと影響があるのか無いのか分からないけれど、今年の梅雨は雨が少ない気がします。
家に居られる日ならば雨を見ているのは好きなので、どうせ低気圧で苦しめてくるのなら、雨もおまけでお願いしますと思ったり。
みなさん、いかがお過ごしですか。
頭痛やら気分の落ち込みやらと、その他諸々不安定な気圧に苦しめられているお仲間の方はいらっしゃいますでしょうか。
こちらはというと、連日不調で溶けかけております。
今日はそんな溶けかけのわたしの、長いツイートのようなエッセイです。
わたしが紡ぐ言葉のうちの大半は、傷み(痛みとは少し違う気がして)から生まれたものです。
いつかのわたしが唯一持ち合わせていた「戦う」という手段で生き抜いた傷み、目を瞑りやり過ごした傷み、壊れて部品をどこかに失くしてしまった傷み。
そういうものが今もわたしの中で隆々と生きていて、居座っていて、わたしはそいつらから時に逃げながら、そいつらのことを時に睨みつけながら、今日も言葉を紡ぐのです。
それはわたしのため。
救われる、楽しみに待っていると言ってくれたいつかのあなたのために。
日常には、どうしようもなく、やるせないことが多すぎる。
これってもしかして、何年か何十年か後に、オリンピックを止められなかった世代だと笑われるのだろうか。後ろ指を指されるかもしれない。
社会科の資料集に「矛盾だらけのコロナ対応」などとカラフルな見出しで、失敗作の箇条書きをしてくれる未来人が現れることを祈ってしまう。
願っても、声を上げても、差別は無くならず、声を上げることを煙たがる友人まで出てきた。
声を上げずにいられる特権階級、などと揶揄すれば私もイジワルの仲間入りだ。
いつかの夕方、「生きていくって気を紛らわすことだから。哀しみにどっぷり浸からなくて済むように、だましだましすることだから」と泣きながら話すわたしを見て、パートナーは少し真剣な顔で「そうだね。悲しいね」と言い、抱きしめてくれたことがありました。
悲しみの量は変わらない。
ただここにも、同じものを持てる人が居ると示してくれただけ。
愛の輪郭はきっとこんな風なのだとなんとなく理解しました。
わたしたちはいつになったら変われるだろう。
誰も憎まず、誰も傷付かず、痛いと叫ぶ人をいたわり、分け合い、笑い合えるだろう。
切なさはもうお腹いっぱい。
嘲り合うのもやめにしたい。
今日から少しずつ夜が長くなってゆく。
また冬に近づいていく。
わたしたちは期待しては落胆し、水を飲み、おいしいものを食べて生きてゆくだろう。
今日も彼はたくさん笑い、わたしもつられて笑うだろう。
絶望を孕んだ世界はまだまだ続く。
わたしはファイティングポーズを取ったまま、わたしやわたしの大切な人を傷つけ続ける世界を絶対に許さないという気持ちで、今日も生きる。
あなたを守る言葉を、ここに、紡ぎ続ける。
終わりに、夏至の夜に書いた詩を。