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彼女

世界でただひとりだけ、わたしの事を自慢のお姉ちゃん、と慕ってくれる3つ下の妹がいます。

このエッセイを書こうと決めてから、改めて彼女はどんな人間なのか、じっと考えてみました。

ずっと同じ屋根の下暮らしてきた彼女。
子ども部屋で、周りは田んぼだらけの広い庭で、数え切れないほどの遊びを一緒に考え、どちらかが泣くほどの喧嘩をしても、姉妹ふたり他に遊び相手もいないので、結局文句を言いながら遊んでくれた彼女。

同じスポーツを始めた小学生の頃からは、子ども部屋も庭も飛び出して体育館が私たちの遊び場になりました。
ふたり揃って性懲りも無くバスケットボールに打ち込み、いつの間にか背たけを追い越されてからも、遊びという名の真剣勝負は、わたしが高校を卒業する頃まで続きました。
彼女とコートで向かい合うたび、試合に応援に駆けつけるたびに、彼女とのセンスの差を肌で感じ思い知り、この嫉妬に似たみっともない感情を誰に言えるはずもない、とニコニコしながらヘソを曲げるのでした。


わたしが彼女の才覚を感じるのは、スポーツに限った話でなく。
忘れもしない、彼女が高校2年の夏休みの宿題でなんとは無しに提出した、当時の部活動について書いた作文を読んだときは、衝撃を受けました。
高校生の特権に近い独特の熱量が静かにこぼれ出るその文章は、読む人の心拍数をあげ、わたしをドギマギさせました。
「いやいやいや、宿題で出すレベルじゃないだろ」と思いながら、「文章上手だね」とカタコトに言う姉に、「まじ?ありがと」と、なんとは無さそうに言う彼女。
その作文はのちに学長特別賞?みたいなものに選ばれ、わたしは「そりゃそうだ」と、羨ましいような誇らしいようなこれまた言い表すのは難しい気持ちになるのでした。


10代の頃には隠すしかやり過ごし方を知らなかった、彼女への羨望の眼差しとも、少しずつ折り合いをつけ大人になってゆくうちに、彼女から向けられていた眼差しにも気がつくようになってゆきました。
おそらく私たちは思った以上に似たもの同士で、彼女もまたわたしと似たような生きにくい世界を泳いでいるように見える時があります。

彼女が社会の色々に刃を突きつけられ、傷つくのを見るたびに、わたしは憤り、彼女を傷つける何かに呪いをかけてしまいます。
それは、自分が理不尽を受けた時の数倍強い怒りで、その憎悪に似た感情を手にするたび、わたしは彼女が平穏に生きるためなら、わたしの大嫌いな理不尽にだってなれてしまうのだろう、と思うのです。


大好きな彼女。
可愛くて仕方のない彼女。
それは彼女がわたしの妹だからと言うよりも、彼女が彼女であるからだろうと思います。
わたしはこれからも、いつだって少し背伸びをして、「お姉ちゃんに任せて!」とかなんとか言いながら、彼女の素晴らしさにすこしドギマギしながら、楽しい何かや美味しい何かを差し出すのでしょう。

この星でただひとりの妹の、世界一のお姉ちゃんであるために。

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