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子供が寂しがる
「子供が寂しがる」
「子供に寂しい想いをさせて可哀想」
という感覚が、今までずっと、分からなかった。
なぜなら、私自身が
親によって寂しい想いを
させられた記憶が無いから。
あったのかもしれないけど、
とりあえず思い出せないw
私の親友で、
親御さんから医療ネグレクトを受けた
と感じている子は逆に、
子供が放置されていないか、
寂しい想いをしていないか、
非常に敏感。
私は中学校の通級指導教室で働いている。
その教室内で独りぼっち、
寂しそうにしている子が
いたら、もちろん声はかける。
でもそれは目の前で起きている事に対する
対症療法的アプローチでしかない。
親友が、よその子に関して
「親と離れて住んでいて、
子供が寂しそう。可哀想」と言っている時、
私は「親がいなくとも子供は育つがな」
ぐらいにしか思わないこともあった。
過保護過干渉気味である私の両親は
裏を返せば、私の大ファンであり
家族全員で全力投球で応援してくれる
超強力応援団。
私が何か行事などに来てほしいと言えば、
万象繰り上げて、私のもとに駆けつけてくれる。
大きな事だけでなく、
例えば迎えにきて、とか
どこどこまで送っていって
と言えば、できるだけ私が楽なように
送り迎えしてくれる。
この記事↓↓↓
で書いたように、
彼氏と同棲している今でも、
車で1時間近くかかる道のりを超えて
肉や卵、おかずを送り届けてくれる。
都心に住んでた時には、
往復3時間以上かかるのに
わざわざ会いにきて、
ご飯を食べに連れていってくれた。
申し訳なく思う私に対して
「パパママも、都心に出れて嬉しいんだよ」
と、私が気に病まないよう、
逆に気をつかってくれたりもした。
兎にも角にも、
パパママは絶対にそこにいてくれた。
そんな私が、
「親がいつでも来てくれるのは
当たり前じゃない」
と気づいた出来事。
つい最近、私の友達が開催に関わった
大きなイベントがあった。
その子とは血は繋がっていないけど、
私のファミリー全員と仲良くしてくれていて、
もはや家族の一員のようなもの。
そんな彼女が深く関わっているイベントだから、
それはもう娘がイベント出してるようなもんw
私の親を呼んだら、両親はもちろんのこと、
妹夫婦まで来てくれた。
(多分あんなに家族勢揃いで来た
参加者はいなかったと思う)
たしかに来てくれてありがたいなー
とは思ったけど、
それくらいだった。
でもその認識を変える事が起きた。
私の友達が私のママを見た時、抱きしめて
ママの胸の上でさめざめと泣き始めたのだ。
ここからは私の想像。
彼女にとっては大きなイベントだけど、
彼女のママは理由があって来れなかった。
だからせめて「東京のママ」みたいな立ち位置の
うちのママが来た時、
安心感を覚えた部分もあったのじゃないかな?
その姿はもう、衝撃だった。
誰かが自分のイベントに来ただけで、
涙を流すくらいに心が動かされるのね‼️
彼女がとても繊細で、豊かな感受性の持ち主だ
というのもあるけど、
親が来てくれることの意味はこんなにも
重いものなのかー。と知った。
親は事情があって来れないだけなのだ
と分かっていても、
心が感じる寂しさは、
すぐに取り除けるものでもない。
ここで「子供が寂しがる」
という状況や気持ちが、
少し想像できるようになった。
また一つ、
両親が今まで必ず、
当たり前にしてきてくれていた事が
当たり前じゃなかったのだ、
と気づかせられた一件。
写真は、我が家の冷蔵庫に眠る、
ママが持ってきてくれた高級卵🥚
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