今すぐ止めるべき、「ネガティブな人」に関する3つの嘘。
3 Lies We Need to Stop Telling About ‘Negative People’
April 25, 2015 by Sam Dylan Finch
高校からの仲の良かった友人の一人が、突然何の断りもなく連絡を絶った時のことを今でもはっきりと覚えています。
「あの子、何ていうか、その、貴方のことネガティブだって思ってるだけなんだ」と、共通の友人が教えてくれました。「今彼女ネガティブな人からは距離を置いてるんだってさ」
「ネガティブ?」確かにちょうどそのとき私は双極性障害の鬱状態にいて、毎日をやり過ごすのにいっぱいいっぱいでした。
でも、私のことをネガティブな人と定義するってどういうこと?まるで鬱状態が私という存在の全てであるかのようじゃない??それに私がにこにこ元気じゃないから絶縁って何ですかそれ?まるで、私は精神病を患っているからサポートや友情に値しないのだと言われたような気がしました。
私と彼女の間で二人の間の境界線やニーズ、お互いのスペースについて話し合ったことはありませんでした。もし私のメンタルヘルスが彼女のメンタルヘルスに良くない影響を与えているのなら、そのことについて話し合う方がずっと建設的なアプローチではないでしょうか。
私が「ちょっと抜けてるけどにこにこ陽気なサム」の時は友達だけど、私がしんどい時期に入ったら途端に「ネガティブな人」扱いで、二人の友情は終わり、という訳です。
このように、「ネガティブな人」というコンセプトやネガティブな人がふりまくとされる悪影響について耳にしたのはこれが初めてではありません。
でも、「ネガティブな人」というステレオタイプが、実はカモフラージュされた偏見である場合が多いのだと、この時初めて気が付いたのです。
人間をポジティブな人とネガティブな人に分類する——その中間には誰もいません——というのは最近のセルフヘルプ系の流行のようです。このバイナリーでは、ポジティブな人(またはポジティブを目指す人)はネガティブに見える人からは距離を置くことを奨励されます。
これが私達が何度も何度も聞かされる物語なのです——「ネガティブな人」は私達の暮らしを暗いものとし、問題を悪化させる存在です。私達は皆ポジティブを目指すべきなのです、という物語。
しかし、ネガティブであることのスティグマ化は、多くの場合saneism——精神病を患う人人への抑圧、差別——に繋がります。というのも、ネガティブな人というのは鬱病を患っている人と同一視されがちなので、「ネガティブな人」というステレオタイプ化や一般化は、どうしても後者に有害なものとなるからです。
虐待加害者やtoxic(毒になる人、毒親なんかで使われてますね)な人と絶縁するのは当然のことですし、むしろ必要なことです。でも、貴方を傷付ける人から離れることは、貴方の傍で苦しんでいるけれど、貴方にはどうしてあげればいいのかわからなかったり居心地悪く感じるからという理由で、その苦しんでいる人を除け者にすることとは違います。
だから「ネガティブな人」について話す時には一体何を意味しているのかはっきりさせる必要があります。でも、「ネガティブな人」関連の言葉の使い方の問題はそこにあるのです。良くて曖昧、最悪の場合は有害なものです。
有害なステレオタイプを前面に押し出し、鬱病で苦しむ人々の孤立を助長させるのはセルフヘルプの域を超えています。もはやそれは苦しんでいる人達を傷付け、排除することです。
私が一体何を言っているのか、疑問に思うことでしょう。ではここでネガティブな人々についての三つの嘘について見てみましょう。そして何故それらが問題なのかを一緒に調べてみましょう。
1.ポジティブな人のようになろうと努力し、ネガティブな人のようになるのは避けるべきだという嘘。
「慢性的に不幸せな人の7つの習慣」のような記事というのは、つまりそういった(慢性的に不幸せだとされる)人達の習慣を観察し、正反対のことをすることで、鬱病の人から学ぶべきだと言っているのです。
これは「鬱病の人はダメ人間なんです。このような人にならないために、鬱病の人のミスから学びましょう」と言っているようなものです。
鬱病を患っている人が貴方に何かを教えるために存在しているという考え自体も問題ですが、鬱病の人達は人生に失敗している顕著な例だというのは更に悪いです。
誰かが貴方という人を、貴方の患っている精神病のみによって定義し、貴方が深く深く苦しんでいる事実さえ、失敗へと続く道の例として挙げられるところを想像してみてください。いい気分はしないでしょう?
感情も経験も長所も賞賛すべき箇所も何もない、ただネガティブな人としてのみ鬱病患者を定義することは、彼等の存在をその病気のみに落とし込み、人間としての彼等を消し去ることになってしまうのです。
これでは問題をあまりにも単純化していますし、鬱病の人を劣っている、あるいは価値のない人々として扱うことです。
2.私達の暮らしから「ネガティブな人」がいなくなればもっとハッピーになれる、という嘘。
虐待をしてくる人や貴方を危険に晒すような人を遠ざけるのと、貴方にとってその人達がハッピーじゃないからというう理由で人々を遠ざけるのとでは全く違います。
いつも悲しそうにしている人から距離を置きたいという衝動は強いものでしょう。いっつも暗い顔をしてる人と誰が一緒にいたいと思いますか?そういう人と一緒にいるだけでエネルギーを使いますよね。よくわかります。
でも、その人が苦しんでいるからという理由で絶縁するというのは、貴方が真っ先に取るべき行動ではありません。二人の間に新たな境界を設ける、二人の間のスペースを広くとる、他のリソースやサポートを探すように促す、貴方と友人の関係に良い影響を与えるような環境で会うようにしてみる等出来ることはあります。絶縁は最後の手段であるべきです、最初に取る行動ではありません。
もし貴方が友人のサポートを重荷に感じるようになってきたのなら、ちゃんと貴方のニーズについて伝えるのは悪いことではありません。「今は自分のことを大事にする必要があると感じるのだけど、貴方のサポートをするのにもエネルギーがいるからなかなか難しい。誰か今私の他に頼れる人はいないかな?」と伝えましょう。
貴方には友人としての義務がありますが、友人(の人生)への責任はないということを忘れないでください。貴方の許容範囲を伝えるのは、友人としての義務を尊重することですが、だからと言って友人の代わりに全てを背負う必要はないのです。
困って苦しんでいる人とは縁を切りたいという衝動がこれだけ強いというのは、鬱病を患っている人に対して私達の社会がどういう態度をとっているのかを雄弁に物語っています。彼等は重荷であり、難しい相手である。相手をするだけ時間の無駄。手に余る。私達の忍耐にも支援にも愛情にも値しない、という態度です。
こんなものは苦しんでいる人へ送るべきメッセージではありません。鬱病を患っている人は重荷ではありません——人間なのです。
正直でオープンなコミュニケーションを取ることは人間関係を模索する上でより健全な方法であるだけでなく、苦しんでいるかもしれない友人に対して、より親身な接し方でもあるのです。
3.「ネガティブな人」は不幸であることを選んでいるから不幸なのだ、という嘘。
セルフヘルプ系の記事の多くが、「ネガティブな人」は自らを被害者として見ることを選び、進んで悲観的になっている人だと語ります。でも、現実には、鬱病や慢性的に不幸だと感じるような状態は好きでなるものではないのです。
不幸になりたい人などいません。それにもし不幸になることを選べるというのなら、(同様に幸福になることも選べるはずなのだから)何故幸福になる方を選ばないのでしょう。?
これは鬱病(または精神病全般)はコントロールできるという思い込みから派生しています。
確かに私達は困難に際して適応し、処理する方法を身に着けることは出来ます。でも、鬱病は選んでなるものでもなければコントロールできるものでもありません。精神病はその人の落ち度ではありませんし、鬱病の人は自ら進んでネガティブになっているのだと言うことは、その人がコントロール出来ないことについてその人を非難することです。
それに、苦しんでいる人に向かって「考え方を変えれば苦しくなくなるよ」と言うのは不当です。メンタルヘルスはもっとずっと複雑なのです。
精神病を患っている人が、発症した後も専門家の助けを求めるまでに何年も掛かってしまう理由の一つがこれなのです。自分のしていることの何かが間違っているのだと、自分で治すことが出来るのだと信じ込んでいるのです。
被害者非難によって、また一つ精神病にスティグマが加わるのです。
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夢や情熱、人生経験やニーズ、才能を持った複雑な存在である一人の人間を、鬱病を患っているからと言う理由でその人の人生のある特定の時期の精神状態に落とし込むのは、過度な単純化というだけはありません。有害です。
私が苦しんでいた時期に友人に絶交されて、私という人間の人間性を取り上げられたように感じました。文章を書くことへの情熱も、強い信念も、お笑い好きなこともおいしい食べ物が好きなことも、私の好奇心も繊細さも何もかも、私が鬱病だから無価値なのだと感じました。
私は「サム」という一人の人間から、「ネガティブな人」というラベルになったのです。私という人間の全てを奪われ、流しに捨てられたようでした。
鬱病が私という人間の全てだと言われたのです。
精神病で苦しんでいる人の中に、これから先その病気がその人の全てを定義するのであり、それ以外にはなれないのだと言われたい人などいません。私達が「ネガティブな人」について話す時、苦しんでいる人達は苦しんでいるが故に劣っているのだと言っているのも同じなのです。
こうして、メンタルヘルスに問題を抱えている人が、そのことを隠さなければならないか、さもなければ否定されスティグマを受けるしかないのだと感じるような社会(文化)が形成されるのです。
もしかしたらオフィスのあの男性は本当に悲観主義者なのかもしれません。もしかしたらそれだけじゃないのかもしれません。どちらにしても、不幸を感じるというのはとても人間的な経験です。それは批判や敵意ではなく、慈愛を持って扱われるべきなのです。
Sam Dylan Finch a Contributing Writer for Everyday Feminism. He is queer writer, activist, and educator based in the San Francisco Bay Area. In addition to his work at Everyday Feminism, he is also the founder of Let’s Queer Things Up!, his hella queer and very awesome blog. You can learn more about him here and read his articles here. Follow him on Twitter @samdylanfinch.
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