貧しくても嗜好品を持ってもいいんだ!
This Is Why Poor People Can (And Should) Have Nice Things
February 2, 2016 by Carmen Rios
貧乏人はステーキや魚を食べるな!
貧乏人はテレビを見るな!
どうしてホームレスが携帯を持ってるんだ?
どれも耳にしたことがあるのではないでしょうか。
私達の住んでいる国は貧困と階層間の非流動性に悩んでいます。にもかかわらず、同時に私達の国では、貧困がどんな形をしているのかに関しての嘘や正しい貧困とそうでない貧困があるといった嘘の物語が蔓延っています。
私達の国の立法者は、自分達には貧しい人々が何をして何をすべきではないのかを決める権利があり、だからこそ彼等がジャンクフードを食べることを禁止してもよいのだと信じています。
私達の国では、ホームレスでも下層階級でもない人の多くが毎日の生活で携帯電話やテレビ、家電製品を使っているのに、ホームレスの人がiPhoneを持っていたり下層階級の人がテレビや冷蔵庫をもっていたりするのが非難され、そしてそのこと違和感を感じることがないのです。
嗜好品を持てない本当の理由はこれなのです:私達の文化では、特定の人々だけが嗜好品を持つべきだとされているのです。
貧しい人々は「嗜好品」を持つべきではないし持てないものであるという神話と、嗜好品を持つのなら彼等が貧困であるという事実に説得力がなくなるという神話はそこら中にあります。
この世には二つの生き方しかない——経済的にゆとりがあるか、全く何ももたないか——という考えは根強いのです。
「贅沢品」とみなされるようなものを持てば——その所謂「贅沢品」が食事を作り保存するための台所用品や、現代社会での生活を可能にする携帯電話テクノロジー製品、その人にとって着心地のいい服(この場合非白人や女性、トランスジェンダーといった、サラリーマンが着るようなスーツを着ることが自分の(人種やジェンダー的な)アイデンティティと符合しないと感じる人々のことが念頭に置かれています)といった必需品だったとしても——貧困について語ることも、社会的支援に頼ることも、助けを求めることすら、その資格がないとされてしまうのです。
バカも休み休み言え。
貧しい人々に支援の手を差し伸べる前に、彼等の苦しみを可能な限り長引かせていたのでは、私達皆の暮らしが悪くなるばかりです。
貧困とは決まった形を取るものなのだというふりを続ければ続けるほど、本当の意味で貧困問題に取り組むことが困難になっていきます。
単に彼等の経済状況から、貧困に苦しむ人達には「持つに値しない」ものがあるのだとするのはclassism(ある特定の階級に属する人達への偏見、階級差別)を助長することです。収入、貯金、(クレジットカードの)最大貸付額が私達の価値の全てではないのです。
私達が人の話に耳を傾け共感することを拒否する時、貧乏な人達が助けを求めることや自分達を貧乏だと呼ぶことを許さない時、私達は貧困にあえぐ人達が実際に経験している苦しみを不可視化し、価値のないものだとするステイタスクオーに加担しているのです。
そうすることで、大富豪ではない全ての人に害をなしているのです。
貧困なのに携帯電話なんて持ってはいけないと言う時、私達は不安な経済状況にいる何千という下流から中流階級のアメリカ人の経験を否定しているのです。
貧困に苦しむ人達にヘルシーな食品を買ってはいけない、良い服を買ってはいけない、自分のアパートを借りてはいけない等と言う時、私達はこの世には富裕層と貧困層という二分法があるという嘘を鵜呑みにしていることになるのです。そんなものは多くの人をを更に貧しくさせるだけだというのに。
下記に述べるのは貧困にいる人が何故嗜好品を持ってもいいのかという3つの理由です(本当は私達が口を挟むようなことではない、というのは言うまでもないことですけどね!)
1.嗜好品は私達が前に進み、生き延び、成功するために必要なものだからです。
私は仕事で携帯電話を使用します。少なくともここ数年はそうです。編集者や雇用主とメールやVirtual workplace appsによってやりとりするのに一日中使いますし、それもほぼ毎日使っています。
ツイートするのにもフェイスブックに投稿するのにも、様々な団体用のタンブラーへの投稿を編集するのにも使います。更に、スイッチ一つで——またはホームボタンを押せば——私にすぐに連絡が付くものと雇用主は想定しているのだと、少なくとも日に一度ははっきり言われます。
携帯電話は贅沢品ではありません。確かにお金はかかります。でも、多くの人にとって、スマートフォンは現代社会において成功するために必要不可欠なのです。
だからこそ、ホームレスの人達や貧しい人達が出来る限りの手を使ってスマートフォンを持とうとするのは当然なのです。スマートフォンによってボタン一つで多くの情報にアクセスできます。スマートフォンがあれば、シェルターや雇用やサポートを得る新たな機会はすぐそこなのです。
携帯を持つことは生きる術なのです。
でも、生きるために必要なのだといって、購入を正当化できる品々だけを貧しい人達は持つべきだと主張したいのではありません。生存と成功は異なりますし、貧困でもそのどちらも得る資格があるだと私は考えています。
生活に必要な基礎用品や、私達が日々の暮らしをスムーズにする上で欠かせないと思っているようなあれこれを、貧しい人達だって持つ権利があります。
貧しい人達だって、人との繋がりや自己尊重心、リラックスできる瞬間や自分を大切にするための時間といった私達が当たり前に持っているものを手に入れる権利があるのです。
スマートフォンはホームレスの女性の暮らしを変えることだってできます。彼女が職に就く助けにもなりますし、自立や安全な場所を得るための手助けにもなります。
でも、単に彼女が家族と連絡を取るための手段にもなり得るのです。あるいは夜を過ごすための音楽をを保存しておく場所にもなります。
生活に困窮している家庭だって、重要な栄養源だからと夕飯に魚や牛肉を食べるかもしれません。あるいは単に好物だから、もしくは友人をもてなすための食事だというだけかもしれません。
現代社会で生き続けるためには「嗜好品」が必要なのかもしれません。元気を出すために必要なものなのかもしれません。セルフケアの実践のために必要なのかもしれません。
もしかしたら、少しでも私達の生活を暮らし易くしてくれるものを犠牲にするには、人生はあまりにも辛くて苦しいから、そういったものが必要なのかもしれません。
嗜好品を持ったからといって、彼等の厳しい現実が変わることはありません。そういったものを持つことで、もしかしたらほんの少しだけ、何らかの形でその現実を生き延びやすくするというだけなのかもしれないのです。
2.嗜好品を持っていなかったらいなかったで、私達はやはり彼等を批判するからです。
私達の社会では、貧しい人達が——自分達と同じようにふるまい、自分達と同じような外見をして、同じようなものを持っていて、同じような学校に行っているといった(または冷蔵庫を持っているといった!!)——「普通の人達」のようにふるまうことを嫌がる人が多いようなのです。
それなのに、私達にとってはどれだけあっても構わないほど(時にはあまりにもありすぎて無駄にしてしまうような)当然のように持っているものを、貧乏な人達に関しだけ彼等にはそれらを持つ資格があるのかを問うのは偽善というだけでなく、論理的に矛盾しています。
これはCatch-22です:貧乏な人達に嗜好品を持ってほしくないけど、私達の社会ではそういったものを持つことは社会的な信頼や尊敬を得るためには不可欠なのです。
つまり、貧困に苦しむ人達は、嗜好品を持てば持ったで批判されるし、持たなければ持たないで社会的信用を得ることができないという意味で、どちらにしても非難されるのです。
就職の面接できちんとした服装をしていない人や、連絡が付く携帯番号やメールアドレスを持たないホームレスの人を雇うことはありません。
維持するのに高額な費用がかかるような生活水準を満たしていないからといって、政府は親から子供を引き離します。
さらに、貧乏な人が太っていたり病気だったり障害を持っていたりしたら、階級差別的なインフラストラクチャーが、人々からサステイナブルな食品(サステイナブルというのは環境に配慮したとか地域の特産品とか色々定義があるので難しいのですが、ここではざっくりジャンクフードではない食品くらいの理解で構わないかと)や手頃なコミュニティーヘルスリソース、運動用具などのあるコミュニティーセンターや公園にアクセスする機会を奪っているという事実を認めるのではなく、真っ先に彼等の「下手な選択」を責めるのです。
貧しい人は「嗜好品」を持つなと私達が言う時、そういった品々は実際には私達の生活においては贅沢品ではないのです。
社会においてそれらの品々は私達の生活では必要だとされ、貧乏な人達にとって、それらを持たないことは、それらに「お金をつぎ込む」のと同じくらい恥ずかしいことなのです。
私達は、私達の提示する条件通りに生きないからといって貧乏な人達を公然と糾弾します。彼等の選択を間違っていると思うから、彼等が私達に言われた通りにしないから、非難します。
より良い暮らしを夢見るからと、そのために厚かましくも努力するからと、批判するのです。
実際には、「嗜好品」とは、テクノロジーに溢れた消費社会に生きる貧しい人達にとっての、生存のためのメカニズムの一つなのです。
3.貧しい人達が それらを持つために何を諦めているのか私達は知らないからです。
他人の生活を垣間見て、歪んだイメージを持つのは簡単です。インターネットや社交の場では特に。貧しい人達が「嗜好品」を持っているのを見るとき、彼等の暮らし全体を見ているのではないということを念頭に置くのは重要です。
唯一正しい「貧困の物語」はありません。
貧しい人という一つのタイプがあるのでもありません。
全ての貧しい人々に当てはまるような一貫した経験がある訳でもないのです。classist文化が何と言おうとも。
そうではないと決めてかかるのは、真実を歪めることです。
フードスタンプを受ける人達は身の丈に合わない生活をしていると為政者は言いますが、現実は逆です。
貧しい人達は助けを求める前に自分達の所持品やそれらへの愛着を諦めるべきだと要求する人達は、その行動によって貧しいということがどういうことなのかについて自分達が全くの無知であることを露呈しているのです。
私達は貧しい人達の人生を知りません。彼らがどこから来たのか、彼等はどんな人なのか、彼等の暮らしぶりがどんなものなのか知りません。
貧しい人達が持っている「嗜好品」について考える時、私達はいったい彼らがどうやってそれを手に入れたのかを考える時間を割きません——もっと言えば、それを手に入れるために何を諦めなければならなかったのかを考えることをしません。
ホームレス男性はスマートフォンの使用料や契約料を支払うためにシェルターでの宿泊を何日かあきらめなければならなかったかもしれません。
貧しい母親は、家族のための家電製品を買うためにシフトを幾つか余分にこなしたかもしれませんし、自分の所持品の中で一番価値のあるものを売ったのかもしれません。
フードスタンプを受けている男性はその一切れのお肉で二週間分の食事を作ったのかもしれません。
大学に入学した時、私はぴかぴかの最新のコンピューターを持っていました。
それは他の多くの人達のノートパソコンよりも良いものでしたし、それを持っていたおかげで少しだけ大学生活に溶け込み易くしてくれました。だから私はそれを本当に大事にしました。というのも、私は労働階級のシングルマザー家庭出身で、私の通う大学は中流、上流階級の子供で溢れかえっていたからです。
でも私がそのコンピューターを買えたのは、上げ膳据え膳で何もしなくてもほしいものが手に入ったからではなく、一生懸命勉強してスカラーシップを受けることが出来たからです。
今年、車を買いました。それは私にお金が沢山あるからではなく、色々なものを我慢して数年程貯金をしたからです。
「嗜好品」に関する限り、貧しい人達とそれ以外の人達の間で最も大きい差は、それを手に入れるためにどれだけ苦労しなければならなかったかということではないでしょうか。
貧しい人達がどのようにノートパソコンや冷蔵庫、スマートフォンや仕事用の服を手に入れたかを、一見しただけで知るのは不可能です。
私だって完璧というわけではありません。もし私の家の前に誰かが新車を止めていたら、その人は中流から上流階級の暮らしに慣れているのだろうなと推測するでしょう。
もしコーヒーショップで会った人が新品のMacBook Proを持っていたら、この人は私のように値札を見ただけで震え上がることはないのだとおそらく思うでしょう。
一人一人に異なった優先順位、ニーズ、欲求があります。貧しい人達が消費者としてどのような選択をするのか、その表面だけを見て判断する時、あるいは彼らの所持品をもとに彼等の貧困の経験を否定する時、私達は彼等が何故それを手に入れたかの動機を考える手間を惜しんでいるだけでなく、彼等が自分達の生活のために正しい選択をすることが出来ないのだと言っているようなものなのです。
貧しい人達がどうやって「嗜好品」を買える状態まで至ったのか、あるいはどうやって手に入れたのか私達は知りません。だからあれこれ心配するのを止めるべきなのです。
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私達は皆「嗜好品」を持ってもいいのだと私は考えています。
私達皆、衣食住を得る権利があります。健康な食生活に気を付けたり身体に気を付けたり、くつろいだりやりがいのある仕事をしたりするためのリソースや機会を得る権利があります。
勿論現実はそうそう上手くいきませんから、混乱することもあるでしょう。
私達はみんな一生懸命頑張っています。手に入らないものや買ってはいけないものをほしがります。夢のマイホームで夢見た通りの生活を送れるような世界を夢見ています。そして私達皆、時に自分は世界で一番不幸な人間だと思うこともあります。
困窮しているはずの人が無駄遣いをしているように見えたら、どうしてもイライラしてしまうでしょう。貧困や労働、階級について書いている人が——私のような人でさえ——MacBook Proを使っているのを見れば混乱するかもしれません。
でも、貧しい人々も、私達のように選択しているのです。難しい選択を。いつ何に何のためにお金を使うかという選択を。日々の生活や機会、将来にさえ影響を与える選択を。
何だかんだ言って、結局のところ私達は貧しい人達の生活について何一つ知らないのです。知らないのだから、彼等の生活がどういうものなのか決めつけたり、否定したりしないだけの分別をもつべきなのです。
Carmen Rios is a Contributing Writer for Everyday Feminism. She splits her time disparately between feminist rabble-rousing, writing, public speaking, and flower-picking. A professional feminist by day and overemotional writer by night, Carmen is currently Communications Coordinator at the Feminist Majority Foundation and the Feminism and Community Editor at Autostraddle. You can follow her on Twitter @carmenriosss and Tumblr to learn more about her feelings.
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