『家族という病』を読んで思った正直な感想文
数年前、実家から巣立って一人暮らししようと決めたときに手に取ってみた書籍の一つ。当時の職場の近くにある小さな図書館からひたすらかき集めた本たちの一冊。
そのときはさまざまな感情と気持ちにかられていた時期でもあったので、そういった状況の中小さいころからよく逃げていた場所が図書館。本に助けを求めれば必ず答えが出てくるというこの不思議な体験に毎回魅了される。
『家族という病』はタイトルからしてもかなり衝撃的で、当時のあたしにはどうしても必要な内容だったので手に取ってみたところ、ツボを押されたような快感を覚えている。5年経った今でも強く共感できるポイントはたくさんある。
この本は下重暁子さんの実体験を基にした一作で、「家族は一体なんなのか」という問いに対して向き合う内容となっている。
私のツボを強く押され快感を覚えた彼女の言葉たちをいくつか紹介します。
思い込みや、コミュニケーション不足が原因で本当の意味で家族と繋がれないのは本当に悲しいと思う。自分のことを知るためにも家族のことを家族たちの視線から理解をする大切さをあとあとになって知った気がする。
よく『親の言うことを聞く子はいい子』という両親から認められるには、愛されるためにはこのような条件が付きものという環境で育ったので、親の価値観に対して疑問を持つことは禁物だった。そのため、心身ともに巣立ちできたのも結構遅かった。
この一説もかなり同意。大人たちの言いなりにひたすら違和感をもつことはものすごく大変だったけど、反抗の連続で今の自分にたどり着いたということも事実として否めない。
家族団らんのタイミングでよく持ち出されるトピックがほかのお宅の家族のこと。その当時、親はほかに話す内容がなかったせいなのか、この内容を持ち出されるたびにものすごく心地悪く感じた記憶がある。
読むだけでも心が痛むぐらいものすごく悲しいと思う時もあるけど、これが常識なのだと思い込めばいろんなしがらみから解き放たれる気もする。
血のつながりに重要性を持つ人たちの気持ちもわかるけれど、血がつながっているからと言って「だからわたしたちは家族」と言い切れるのもなかなかおかしな話でもあるなと思わずにはいられない。
血の繋がりでしか認識できない家族は本当の家族じゃない。血の繋がりがあっても疎遠に感じてしまう家族たちが存在しているのはあまりにも血縁に固執してるからだ。
家族のために自分を犠牲にすることが美徳の意味とは一体なんだろう。家族から受ける暴力に耐えるのは美徳なのだろうか。それが心身ともにダメージ受ける経験であっても我慢すべきなのか。
本当の自分を曝け出すことができず、個人を孤独にさせる環境を作りだす家族は許せるのか。心を通わせることなく、遠慮と気遣いで固める関係性は誠の愛と言えるのか。
特に母親は自分の子は自分の体内で育ち、腹を痛めて産んだのだからと子供を自分の所有物と思ってしまってる母親もいるのではないかと思う時がある。
ある意味これは勇気のいる決断で、『最後はひとりで』という覚悟を決めている下重暁子さんの強い意志に大いなる敬意を表する。
個性は元からあり、これを成長する過程でどのように育まれるかで個人の生き様が決まっていくような気がする。個性を出して生き辛さを感じてしまうのであれば、環境を変えることしか方法はないと思ってる。自分の経験でも、日本から離れたことでだいぶ生き辛さから解放されていまでは前より幸せを感じながら生きている気がする。
ということで
皆さま、『家族という病』おすすめです✨
家族についての新しい考え方や気づきをたくさん得られるはずです。
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