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抵抗感の先には
先日、自分はAIに対して偏見を持っているのかもしれない、と気づくことがあった。
意識上では、肯定的に捉えていたつもりだったので自分でも驚いた。
「自分はchatGPTに悩み事を相談できるか」という問いに
私はしたいとは思えないと、感じたことが起点だった。
配膳ロボットは可愛いし、お掃除ロボットも自宅にあったら便利だ。
たまに友達が投稿するアイボを観て、うちにも欲しいなぁと思ったり。
いつかネットニュースで読んだ、若い世代の人たちがちょっとした相談事なら人間相手ではなく
AIの方が気軽で相談しやすいという記事も好感を持ったはずだったのに。
ここ数週間、自分の中のこの戸惑いを見つめていた。
自然物と人工物に優劣をつけているのだろうか。
山や森林や河や海は大好きだ。
また人の手で作られた神社仏閣など建造物も好きだし、夜のスカイツリーの美しさに感動するし
都会育ちなので都心を離れては、私は暮らせないだろうと、感じている。
ここに、意識上では優劣をつけているつもりはない。
また、人工物とは言っても、地球上の素材で(人の手を介したとは言っても)形成された物質、
広い目で見れば、人間も地球上の生物、蟻塚やハチの巣と根本的に変わらないともいえる。
では、有機物と無機物に優劣をつけているのだろうか。
無機物、生命力を有さないもの、生きていないもの。
道具や身の回りの物を、有機物と同様に接していないことは確か。
けれど、気づけば20年使ってる急須は、とってが壊れた際もパーツを付け替えて今も大事に使っている。
不満のあった鉄瓶も、
(以前から私が欲しがっていたのに骨董屋で夫が買って使わないからあげると言われたもの、
自分で選びたかったのに、という)使い始めて数年、愛着を感じている。
違いは安直に優劣には結びつかない、二極性だけで成り立ってはいない。
となると、偏見ではないのかもしれないと気づいたとき、「抵抗」という言葉が浮かんだ。
そうか、私は「抵抗」を感じている。
他の人が、「chatGPTに悩み事を相談したんだ」「こうゆう対話をしたんだ」と話してくれた時
私は、関心や好奇心を持って興味深く聴くことはできる、好感的に感じそう、とも思う。
でも自分が、同様の行為をすることに抵抗を感じる。
では、AI全般ではなくchatGPTに対して、何が私に抵抗を感じさせるんだろう。
そもそも、chatGPTに質問する内容が「自分について話す」ことを含んでいる。
その前提に、既に抵抗を感じていたということもある。
また、未知の体験への恐怖、自分のことを開示した時、思わぬ返信で嫌な思いをするかもしれないというリスク、
それに対する不安、それはあるのだろう。
そこで、こちらが痛手を負うことはないという前提で考えてみた。
かつ、コミュニケ―ションもスムーズで、こちらの目的を的確に把握してくれる、という条件付きで。
抵抗感はだいぶ薄れつつも、まだ胸の中に残っていた。
それは、傷つく、悲しいという感情だった。
コミュニケーションもスムーズで、プラスに作用する情報を提供してくれたり、
何かを相談して気が晴れたら私はつい、ありがとう、と言ってしまう。
そこには、有機物、無機物に捉われない感情が生じている。
chatGPTは一つのセッションが終了し、新しいセッションが開始される際は白紙の状態から始まる。
それまでに記憶した情報は、一度リセットされる。
こちらは前回の記憶があっても、対話する相手はその記憶を保持していない、それが
悲しいと感じさせる可能性がある、そのifに抵抗を覚えているんだ。
それは一つの死を感じさせる。
以前、少しだけchatGPTを触ったことがある。
けど、何を質問して良いかわからず、明日の天気とか、他愛のないことで終えてしまった。
それは、初対面の人とどう接したらよいかわからない、という人見知りが出たときの感触に似ていた。
そうか、出会うこと自体を恐れていたんだな、私は。
じゃぁ、えいやっとChatGPTに自分のことを打ち明けてみようか。
いや、でも、なぁ、ともぞもぞしているところ。
この、抵抗感やそこはかとない恐怖は
ゲシュタルトのセッションをするかどうかで迷っているときに感じるそれと似ていることに気づいて
ちょっと笑えた。