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社会から与えられたラベル

「社会から与えられたラベル」は私に安心感を与えてくれる。でも、もっともっと、社会からのラベルが欲しくなる。真っ白のシールの上に書かれた名前より、金のちょっと目立ったシールの上に書かれたラベルがいい。

人はよりラベルを得るために今日もあくせく生活するのだ。そして、そのラベルは人に安心感を与えるのもでもあるし、縛るものでもある。だから、結局私はこのラベルが好きなのかわからない。

でも、この世界で何かを成し遂げた人の本を読んでいると自分のラベルがちっぽけで何も意味を持たない事実に切望感を感じる。きっと、自分は、何かになりたいのだ。でも、その何かが分からないから悔しい。

私が今まで得たラベルは様々だった。それは、全く違和感がなく私の人生に溶け込んでそこに留まることもあれば、1年や2年で手放すことになったものもある。

私は実家に帰ると「娘のErina」というラベルと「長女のErina」というラベルを持つ。仲のいい友達からは「親友のErina」というラベルをもらって。いいのか悪いのかわからない。学生の「〇〇学校の〇年〇組のErina」ラベルは最初の部分は大切だ。世間は、ここにこだわる。そして、それは人生に大きな影響を与えるとい社会の迷信がある。社会に出ると「〇〇会社のErina」になる。社会という荒波の中で、働いている人にとってそれがどんな意味を持つのか想像するのは容易いだろう。

海外にい行くと「日本人のErina」というラベルが好きだった。日本で何の意味を持たないラベルだけど、外に出たら急に意味を持つラベルになるというのも不思議なことだ。それだけ、私はラベルにこだわっているということだろうか。

名前の前に来るのはいつもラベルなのだ。社会から常に自分の属性を明らかにしてくれとでも要求されているような気がする。そして、いつしか、それはアイデンティティーの一部になっていく。

オーストラリアに来て一週間経った、日本人のシェアメイトが悔しそうに言ったのを忘れられない。

「私は、日赤病院のMichikoだった。でも、仕事も全部やめる時、日赤病院の看護師のMichikoでないことが寂しかった」そう言って、オーストラリア生活への不安感を話した。


この時、私はあまりピンとこなかった。そこで働けないことが悲しいのか、それともこの状況に不満なのか、今思え返すとそんなことではなかったのだ。つまりは、社会から与えられたラベルがないことに不安を募らせていた。彼女のアイデンティティーの一部が削られていたということが悲しかったのに違いない。

ラベルはいいように活用すれば安心感を与え、恩恵をもたらしてくれるかもしれない。でも、ラベルに固執するのはよくない。すべての、ことがそんな単純でラベルの中に納まることはない。

それでも、より良いラベルを追い求めることをやめないのだろう。

今日も私たちはどんなラベルを追い求めて生活するのだろう。

でも、いくらラベルを追い求めても決して終わりはないのかもしれない。

写真:PexelsのEVG photosによる写真

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