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#24 豚を殺す、歌うこと以外に

 8月8日は爸爸節、つまり父の日で、父の日のお祝いにおじのところで豚を殺すからみんな山に行った。誰かが結婚したり子どもが生まれたり、おめでたいことがあれば豚を殺す。昔は自分たちで豚を飼っていて、おめでたい日の朝となれば、前の日の夜まで親友のように可愛がっていた豚を殺して食べたけど、もう今はうちで豚を飼っていないので買ってくる。もちろん生きている動物である豚を買ってくるわけで、それを玄関先で殺す。家の前に青いビニールシートを敷き詰めて、カラフルなテントを張って、その下で長靴を履いたいとこたち、いとこの息子たちが、殺したり、あぶったり、さばいたり、大仕事をする。

 おじがもう少し若い時にはおじのところでも豚を飼っていた。いとこ(おじの娘)は豚に自分と同じタイヤルの名前をつけて、まだ小豚の頃から可愛がって育て、そしておめでたい日になると殺した。いとこはおばあちゃんの名前を受け継いだので、おばあちゃんも、いとこも、豚も、みんなヤワイという名前。いとこヤワイは女の子で、タイヤルでは女性は動物をさばいたりしないので、正確にはヤワイのお父さんやお兄ちゃんたちが殺した。かなしみや罪悪感などはこれっぽっちもなくって、いとこヤワイはうれしそうに豚ヤワイを食べて腹の中に入れた。その頃もう日本に住んでいて日本人というか東京のギャルが自分のアイデンティティにほとんどなってた私は、ヤワイがヤワイを食べる姿に一瞬ものすごい衝撃を受けたけれど、そこからじわじわと、なんだか自分が取り戻されているような気持ちになっていった。

 タイヤルのしきたりでは、獲物は親戚みんなで分けることになっている。肉の保存ができなかった昔はそうしないと食べきれず腐ってしまっただろうけど、各家庭に大きい冷凍庫がある今でも同じルールが適用されている。狩りの獲物だけでなく、買ってきた豚についても同じルール。殺した豚の血の海になっているブルーシートを、直接ホースの水で勢いよくすすいで、血の混ざった水が家の脇の排水溝にざあざあと流れていく。きれいにしたビニールシートの上に、たくさんいる親戚の人数分、赤白ストライプのビニール袋が口を広げて並べられて、その袋一つ一つに、いとこたちが包丁で塊に切り分けていった豚が入れられていく。その場に参加できなかった人にもちゃんと袋が割り当てられており、なので、親戚の誰かのところで豚を殺すと、何もしていない私のところにも、母経由で豚肉を分配してもらえる。

 一人で日本に住んでいると、家族のおめでたいことにもほぼ全く立ち会えない。最近はがんばって隔月で帰っているのにどうもタイミングが合わず、今回の爸爸節も日本で仕事。いとこのインスタライブで豚を殺している中継をちょっと見て、ママにLINEして、私の豚肉もある?と一応確認すると、ちゃんと持って帰ってとっておくから你下次回來可以吃、と言われてホッとする。おいしい豚肉が食べれるのはもちろん、ここ何年も不在にしている私が、ちゃんと肉の分け前の頭数=家族としてカウントしてもらえていることにホッとする。

おば、祖母ヤワイ、ママ。
おばあちゃんの写真が手元に全然ないのでママに写メして送ってもらった。

 爸爸節から1週間経って、昨日の日本は終戦記念日。関東地方はよく晴れていて暑い。来ると言われていた台風はこちらには来なかった。道の向こうのほうに街宣車が何度もやってきているのが聞こえる。ものすごい汚い言葉遣い、すさまじく汚い声で、辺り一帯地域にヘドロが撒き散らされているようだ。配備されている大勢の警察は、みなに等しくある自由を守っているんだろうけど、遠くから眺めていると、一人の人間としてなすすべもなく立ち尽くしているようにも見える。終戦記念日、という字面や語感にある欺瞞というか、全然平和でもなんでもなさそうなこの言葉とよくマッチした光景に見える。2023年。

 私の頭の中を、少し前に参加した「台湾の高校歴史教科書を読む会」で聞いた話が、ずっとちらちらしている。日本の植民地時代の台湾で、公衆トイレは日本人用と現地人用で分けられていた、という話だ。それって、アメリカ南部とかアパルトヘイトとか、ああいう segregation(人種隔離)を日本も思いっきりしていたということで、そんなこと、私はその時までまるで知らなかった。アメリカや南アフリカのしたひどいこととして学校の授業で習ったことは覚えている。日本もしたんだとは習わなかった。はじめて聞いた。当時の日本とは、台湾は日本の植民地だから台湾=日本であり、台湾人=日本人なのだ、という理屈のはずだが、実際のところは、日本人が使うトイレは、台湾人は入るのが禁止されていたという話だ。漢人だろうが蛮人だろうが。差別があったのは当然だろうとわかっていても、その内容が詳らかにされると、やはり私の中にショックが起きる。日本がこれだけ公然と segregation をしてて、それは台湾でやっていたわけだけど、ルーロー飯うまいとか台湾カステラとか台湾って親日だよねとか言ってる人たちの中で、その segregation の事実を知って言っている人はどれだけいるんだろう。みんな知ったらどう思うんだろう。私だってこの間はじめて知った。ショックを受けたというのは、まさかそんなことが、というショックではない。ああ、やっぱりな、とじんわりと思っている。なのに私の奥の方で私は、痛み、動揺、あきらめ、かなしみ、怒り、いろんな感情のグラデーションの、どちらに寄るでもなく、境界線のない混ざり合いのぼわっとしたしみを、再確認するみたいに味わっている。

 湾生、という言葉を日本人の口から聞くたび、いつもなんとなく釈然としない気持ちになっていた。あなたのところが植民地だったので、いい思いしたんで忘れられないんです、バナナもマンゴーもおいしいし、現地にいいお友達もいて、みたいな感じで近寄られても、あなたのその懐かしい思い出がどれだけの非対称な関係の上に成り立ってたかわかった上で私に話しているのかな、みたいに思ってしまうことの方が多くて、私は歌が仕事の歌手でよかった、と思いつつ途方にくれる。いつもそうなる。言葉だけではどう交流していいのか、私にはもうずいぶん難しくなってしまった。できるかぎりみんなと仲良くしてみたい。今また戻ってきた街宣車でわめいているおっさん(意外と若いのかもしれないし、声の老けないおじいさんかもしれない)だって、ライブに来てくれたり、どこかの野外ステージで偶然私の歌を聴いてくれたら、一緒にその時間を共有して何かお互いに感じ合いたい。一緒に話し合ったりしなくてもいいから。誰かの台湾のいい思い出を打ち消してやりたいわけではない。お互いにお互いの場所から仲良くしていくために、歌う以外に他に何ができるのか、いろいろやっていってみるしかない。

 日本では送り盆の今日、台湾では鬼門開。子の刻23時から。あの世の好兄弟たちがこの世を再び訪れに来るという。台湾から日本にも遊びに来るかしら。それとも日本に遊びに来ていた好兄弟たちが、ゾロゾロ台湾に戻っていくのかしら。


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