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#8 お花見

 桜が咲いたと思ったら毎日雨が降ったり寒くなったり、やっとお花見日和でこの週末は近所をよく歩いた。やたらちょこちょこコンビニへ支払いに行ったり、メガネを買いに行ったり、スーパーへ行ったり、魚屋さんへ、図書館へ、薬局へ、本屋へ、スタバへ、珈琲豆屋さんへ、郵便局へ。ここに住んでもう5年くらい経つので、あそこの家はお庭に大きい桜があって花見してる、とか、ここの家とここの家の間からあそこの家の桜の上の方が見える、とか、歩いている間にだんだん思い出してきて、そこを通れるように回り道して目的地へ歩いていく。引地川を渡る。橋ですれ違う人たちがみんな、全身から「春です!」とオーラを発している。スマホで誰かと話しながら、子供と並んで自転車を漕ぎながら。
 
 うちからすぐのところに、私が「お多幸ストリート」と呼んでいるただの道がある。全部で30秒くらいなんだけど、その名の通り、そこを歩いていると、もう全てを完結させてくれるような、ものすごい多幸感が湧き上がってくるのだ。うちから行くと、大家さんの敷地の桜の下をくぐって畑の横の道に出て、そのまままっすぐ行けば珈琲豆屋さんの方に、右に行けば漁師さんと薬局の裏のとこに出る。ここを歩く30秒くらいの間、朝だろうが昼だろうが夜だろうが、雨だろうが晴れだろうが、お金があろうがなかろうが、なんだか知らないけど私は全身いっぱいに、あれよあれよと多幸感がみちみちて、みるみるあふれて出てくるほどになっている。友人によれば、「えりちゃんちのところの道はとっても古い道で、昔からこの辺の人たちは海で魚を獲って、畑を耕して生活してるでしょ。ここを通ってみんな海へ行って、またここを歩いて畑に戻った、そういう道なんだよ。」という話だ。このお多幸ストリートを、大漁の魚や野菜を担いだハッピーな人たちが、何百年も、千何百年も、海へ陸へと歩いてきたんだろうか。

お多幸ストリートの一角。私はこの大家さんの桜の大ファン。

 
 しかし桜が咲いているともう本当になんとも夢心地のいい気分で、日本にはすごいシステムがあるなあというか、ここに住んでいれば年に一回、桜を眺めて過去一年分のめんどうくさいこと、めんどうくさい感情、解決しなくてはと思ってたはずのもろもろ、全てリセットして、ふんわりなかったようなことにしてやり過ごせてしまえる気分になる。一年なんてあっという間なんだから、なんだかんだ一生くらい、花見の合間で過ごせてしまえそうだ。


 台湾に帰ったばかりの頃、母は、
 「台湾って日本みたいに四季がないから嫌。一年中花ばっかり咲いて。」
と言っていた。この人は一体何が嫌なんだろう、こんなに緑豊かで、ブーゲンビリアが咲き乱れて、ランの花がこぼれて、こんな天国みたいなところで何が不満だっていうんだろう、と私は母のことを、ものすごく文句の多い女のように思って見ていた。今はわかる気がする。来る日も来る日も、シダが生い茂り、色鮮やかな花が咲き続けてやまない圧倒的な美しさの中で、麵包樹や榕樹の下、じっと汗をかき、憂鬱を抱え続けていることの、逃げ場のない苦しさがわかるような気がする。

木の股からカトレア。


 久しぶりに母に強い口調で当たってしまった。もともとはe-TAXの番号の控えを台北の家に置いてきてしまったので、それを読み上げてほしいというデジタルとアナログがどうしようもなく絡み合った理由で電話して、そこから母がおばと二人で四季にお墓まいりに行ってきたという話からおばの話になって、おばのお酒の話になった。

 私のライブに来てくださる方はご存知のように、私は自分のタイヤルの家族にあてて曲を書いていて、今のところ、おば、おじ、いとこ、おばあちゃん、はとこ、おじいちゃん、と続いている。家族のうたは、勝手に飛び出してくる。音楽のこととか、というか全体的に特になんにも考えていない時に、曲のフレーズが私の口からぼろっと出てくる。この曲を書いた時も、台湾にいる母とこんな感じで電話をした後だった。ここの藤沢の家のキッチンで洗い物をしていたら、

  さーけがーやめーられーない

と、この曲の出だしになった歌詞とメロディをふっと無意識に歌っていて、あ、と思ってすぐに続きを書いた。おばのことだというのはすぐわかった。というのも、電話で母がおばについて文句というか、愚痴というか、嘆きというか、言っていたのだ。
 「酒がやめられないね」
と。

 あの頃は、おばも今よりずっとお酒を飲んでいて、好きな言葉ではないからあまり使いたくないが、いわゆるアルコール依存症という状態が何十年と続いている、そのまさに真っ只中にあった。この言葉が好きじゃないのは、依存症っていうと、まるでその人が悪いみたいだからだ。お酒に依存するあなたがいけないですね。ああ、あなたってアルコールに依存してしまうような人間でしたか、と、まるで何様みたいに人を裁いて、そして自分たちとの間にそっと一線引いてから、なるほどなるほど、と、そんなことないふりしてまた話し始めるような、そういうきれいに隠された冷淡さが、言葉そのものに入り込んでいる。私はそういう言葉を使って自分の大切なおばのことを話すのが嫌だ。だってそもそも私は、おばがアルコール依存症と言われる状況に長年あることについて、その原因がおばにあるとはこれっぽっちも思っていない。おばの人生に問題があったことが原因だとも思っていない。そうではなくて、もっと、この社会全体が抱えている大きな問題が、おばというこの社会の中の一つの点の上に、症状という形をとって現れたとしか私には考えられない。どうしておばという点の上にこの症状が現れたのか。おばという点。世界の中の、台湾の、原住民の、タイヤルの、山の中の、四季という部落の、1960年代の、国民党の、戒厳令の時代の、日本の植民地教育を受けたタイヤルの両親のもとに生まれた、一人の、美しい女性。

 「酒がやめられないね」
とおばをさして言った、あの時の母の声を私はまだよく覚えている。口の中が熱くて、奥の方から苦い味がして、ものすごい裁きと、ものすごい諦めと、疲労感、徒労感、母はきっと今電話口の向こうであの目をしてるんだろうというのがありありと浮かんだ。母は時々あの目で、「あの人はもうダメだね」と、人を裁く言い方をした。そういう時の母は、口元がなんともいえない引き締まり方をしていて、私はたとえ母が誰のことを指して話していても、まるでその裁きが自分にも向けられているようで耐えられなかった。

 母は裁く言葉を発するけれど、おばとのことで言えば、母は自分が飲んでもないアルコールに巻き込まれに巻き込まれてきていて、おばとの間に一線など1ミリも引いていないことは明らかだ。おばが「うっ」と言うやいなや素早い動きでおばの顔の前にゲロ袋を広げるところから、酒の入ったおばに長時間暴言を浴びせられてとうとう我慢がならず、おばを布団の中に丸め、黙るまでずっと押し込んだり(「そんなことしたら窒息して死んでしまう」とおばあちゃんが止めに来た)、酒の入ったおばが勢いよくガラスに突っ込んでいって血だらけになり、ギャーギャー泣きわめくのを無理やり車椅子に縛りつけ、近くで診てもらえる外科を探して車椅子を押しながら走り回ったり、数年前おばがついに幻覚を見るようになった時は、恐怖から吐き続けて体重が38キロまで落ちて身の回りの世話もできなくなってしまったおばを家に引き取り、ほぼ歩けないおばを連れて、病院、廟、占い、改名(台湾では一人3回まで戸籍ごと改名できる)等、あちこちをめぐり、考えられるありとあらゆる手立てを尽くして、おばのまあまあの回復まで持ってきたところまで、母にとってこれらは日々の生活のほんの一幕で、これら全てプラス、ここに書ききれない何十倍もの出来事が、お酒の入ったおばによって引き起こされてきた。その解決というより尻拭い(ゲロ拭き?)を、全て、母はおじいちゃんの介護と同時進行でやってきたのかと思うと、母のあの、前後左右に緊張した口元から出るおばに対する裁きの言葉は、裁きの言葉という形をとった全然違うものだったのかもしれない。ため息という形を取ることすらできず、たまり込んだまま石みたいに固まってしまった、膨大な母のため息たちの凝り固まった塊。その塊はゴツゴツしていて、重く、大きくて角ばっている。それはおば一人に対して投げるというにはあまりに巨大すぎる塊だ。

 母の口から言葉の形になって落ちてくるのは、
 「もうダメだね」
 「酒に逃げるなんて、心の弱い人間だね」
という言葉だ。私はその日本語が母にとってどのようなものなのか時々考える。私がここで書いている日本語と、母の日本語は、同じ音声の形をしていても、「同じ」ではない。母が息を吸って、吐いて、そういう音声の羅列を発している時、母は私の前で何を伝えているのか。
 でも母がその日本語の言葉を発すると、私はどうしても憤然としてしまう。じゃあおばさんがお酒を飲むのは、おばさんが心が弱いからだって、ママは本当に本当に、それがおばさんがお酒を飲む理由だって思ってるの? 媽媽妳認為那個就是真真的理由嗎? おばさんは心が弱いからお酒を飲んでるの? 本当にそうなの? 私は母に向かってそうやって憤然と声をあげて、一体何に対して声をあげているんだろう。


 母とおばと、一緒に藤沢で花見をしたいな。たいして混んでない公園に行って、近所の家のお庭の桜を一本一本眺めて歩いて、お多幸ストリートを30秒歩いて、大家さんの桜の下をくぐって、魚を買って、野菜を買って、なんでもない花見をして散歩して、スーパーに行って、適当に疲れて帰ってきてなんかゴロゴロしたい。日本の桜はやっぱりきれいだねえ、とか言い合って、できればビールなんか飲みたい。どうだろうなあ。


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