私と家族と食卓と#5〜宝塚ホテル
地元の宝塚ホテルが、今年3月に阪急今津線宝塚南口駅前での1926年から百年近い営業を終え、この6月に宝塚大劇場の西側に移転開業した。
旧ホテルは解体され、跡には違う何かが建つのだそうだ。
老朽化と耐震性の問題とのことで、歌劇ファンや地元住民にとっては思い入れのあるこのホテルが移転と聞いたときには、持って行き場のないさみしさを感じた。
老朽化や耐震性と言われると、得に大震災を経験している兵庫県出身の私達には誰のせいにもできずに、とたん無抵抗になるところがある。
その反面、思い出も一緒に壊れてしまうような焦燥感のような喪失感を感じるのはあの震災のせいなのだろうか。
4年ほど前に実家が隣の西宮のマンションに引っ越して、それからは東京から帰省したら友達に会いにちょこっと寄るくらいで、なかなかじっくり「地元」に戻っていない。
高齢になった両親には、古い戸建てよりも今のマンションの方が過ごしやすいはずだと、私も賛成し、背中を押した。
なのに、実家が引っ越してから年々、ちょっとした昔のことや、あの頃過ごした場所や一緒にいた人の名前を思い出せないことが増えた。
もともと夏休み明けにクラスメイトの名前を忘れてしまうようなことのある薄情な私だから、東京に来て7年経ち、加えて少しずつ物忘れの多くなる歳なんだし仕方がないと思うが、やはりさみしい。
何年か前までスラスラ話せてた昔のおもろい地元ネタがすぐに口を突かない時、とてつもなく一人でぽつんと生きているように感じる。
旧宝塚ホテルは、歌劇の大劇場のある宝塚駅の隣の宝塚南口という駅にあって、小さな温泉街にある旅館の脇に架かる宝塚大橋をぼちぼちと歩けば劇場までも遠くない。
その宝塚南口の駅を出たら、目の前にホテルがあった。
そこはこのレトロなホテル以外にはにぎやかさは特別ない、住宅地だ。
今も健在だろうか、サンビオラという名前の駅ビルがあって、駅から降りる階段の手前にある中華料理店「天津」には時々家族で行った。
ガストになったところはボーリング場で、高校生のときは友達と遊んだ。
南口のイカリスーパーは車が置きやすく、ちょっと珍しい食料品が多いので、少し高いけど楽しい。
駅から10分も歩かないところには、アモーレアベーラという日本で最古と言われるイタリアンの店がある。ここのしっかり味のラザニアに長細い固くも柔らかくもない、ちょっと甘めの生地のパンにつけて食べるのが好きだ。
ある時期2〜3度、宝塚の地図が描かれた紙のランチョンマットが敷かれていることがあって、「持って帰っていいですよ」とベテランの店員さんに言ってもらったが、絶対にラザニアをこぼしているので、どうしたらいいかちょっと困ったことがある。
その地図には宝塚の観光ルートが紹介されていて、音楽学校の入り口のそばにある手塚治虫記念館のことも描いていたように思う。
そして、宝塚ホテルといえば、赤絨毯。
母ともよくここでお茶をした。赤絨毯の階段を登ったところにあるカフェでは、ロビー階の喫茶よりもちょっと豪華なアフタヌーンティーがいただけた。
バイキングに行ったら、元が取れるくらいに山ほどのローストビーフとプリンを食べた。
息子の幼稚園の入学式、進級式もここだったし、私が書道を習っていたときには、毎年の書き初めは大きな宴会場を借りて、別室で振る舞われるフレンチをみんなで食べる。
阪急百貨店で勤めるいとこの結婚式も同系列のこのホテルでした。その時は親族の中でも私達たち家族が会場に一番近くに住んでることがちょっと自慢気だった。
宝塚ホテルのシフォンケーキは生クリームで周りにアーモンドスライスのついたものと、チョコレートクリームでチョコチップのついたものがあって、私はチョコレート派だ。
ここのチーズケーキが好きだと、今はインドネシアに住む同級生が帰国の度にフェイスブックに投稿している。
目新しさはないけれど、懐かしく優しい味はまさしく生まれ育った町を思い出させてくれるのだろう。
何もない町だと思っていたのに、こうやって目を瞑れば、切れ切れと風景が思い出されていく。
日々に追われていろんなことを失くしていく気がしてたけど、こうやって離れていても生まれ育った町の風景はこんな私の一部なんだ。
今度帰省したら、母と新しい宝塚ホテルでランチかお茶でもしよう。
きっと私みたいな人たちの思い出も引き取ってくれているはずだ。
写真は前に作った生クリームの方のシフォンケーキ。宝塚ホテルを思い出す。