創業15周年の『できるんじゃないかなぁ。』
3月9日、私たちマザーハウス は15周年を迎えます。
全てのお客様と仲間と先輩方に支えられ15年間という濃い年月を歩き続けることができたことは、自分でも奇跡なんじゃないかと思っている。
長いようで短い。短いようで長い。
振り返ると、一年たりとも、変化のない年はなく、困難がなかった年はなかった。
15年という切りがいい数字を目の前に、原点を振り返ろうと私は取り組んできた一つのプロジェクトがある。それは、はじめてバングラデシュ で「あ、可能性があるかもしれない」と思えた繊維、「ジュート(黄麻)」のバッグの開発だ。
ちょうど15周年記念に間に合えばよかったのだけれど、開発が二転三転してしまって間に合わなかった。でも、春のうちには世の中に出したいと思っている。
そのジュートバッグの開発が長かったから、必然的に私は原点を思い出す機会が多かった。
私がジュートの工場をはじめて訪れたのは24歳の時だった。
首都ダッカで行われた「物産展」みたいな場所で、ジュートの繊維と出会った。
当時の私は、ホームシック最高潮で、バングラデシュ大嫌いの渦の中にいた。
「こんな賄賂と汚職に塗れた国、早く日本に帰国したい!」
ダッカの一人暮らしのアパートで連日泣き続けていた私はとある物産展でベンガル人が「我らが誇る黄金の繊維、ジュート」と誇らしげに語っている姿と出会い、衝撃を受けた。
世界の輸出量のNo.1をインドと競っている素材で、コーヒー豆の袋に使われていた素材だった。
ダッカに滞在して1年と2ヶ月くらいが経っていたが、はじめてポジティブな要素を感じた瞬間だった。
それからダッカから車で2時間半離れたジュート工場を訪問した。
騒音が激しくて、埃っぽくて、すぐに咳がでたのを覚えている。そうこうすると耳が痛くなった。
トイレを探すと女子トイレというものがないことを知った。
そこで私は劣悪な労働環境のもと、大量に麻袋を生産しているワーカーと呼ばれる人たちと出会った。
どれくらいの回数この工場を訪問しただろうか。
「しつこい日本人だな」と言われたことを覚えている。
何か、とても大きな問題を目の当たりにしているんだけれど、同時に、うるさい織機の音は、可能性の扉が開く音のようにも私には聞こえた。
「ジュートは、麻袋ではなくって、バッグにできるんじゃないか。もし、できたら、目の前で起きている負の連鎖はなくなるんじゃないか。」
本気で思った。
付加価値を作り出すことで、大量生産からシフトしていくことが途上国には本質的に大事なんだとベンガル語で熱心に伝える24歳の私はきっと彼らからしたら宇宙人だっただろう。
「そのためにはね、今のゴワゴワしたジュートの質感から、もっと滑らかにしたいんだよね」と話すと、ジュート工場の人たちは「所詮、農業のための繊維なんだから、そんなことはお金と時間の無駄だよ」と言い、取り合ってくれなかった。
それからジュート研究所という場所に行き、「どうしたらいいでしょうか?」と聞いてみた。そして最終的には隣の国インドのコルカタ まで行き調べ、ゴワゴワした繊維を素敵な布にする方法を探していった。
年々、マザーハウス ではレザーのバッグの比率が高くなっても地道に毎年この生地の改良を続けている自分たちが、私は好きだ。
そして、今年は織りの変化に挑戦できていて、正直すごく新しいジュートの見え感になろうとしているのに興奮している。今取り組んでいるジュート工場はあの時と異なる工場なんだけれど織機の写真を送ってもらったら急に当時の感情が思い起こされた。
私は、ジュートの知識も、バッグの知識も何もなかった。
ただ、当時からずっと15年間、根底に流れている一つの言葉がある。
それは奇しくも2008年情熱大陸のインタビューで「どうしてそこまでやるんですか?」と聞かれた時に、うまく答えきれずなんとか絞り出した言葉でもある。
それは、「できるんじゃないかなぁ」という気持ちであり考え。
「できる」という確信ではないんだけれど、でも、感情だけによる軽い言葉では決してない。
日本に帰り起業するぞと意気込んでいた時、多くの経営者の方から事業の可能性について否定され「根拠は?」と聞かれると、いつも抽象的だった。
根拠はあった。ただ、言葉で説明できるスキルが全くなかった。
心には、今まで見てきたたくさんの職人さんの顔、素材の肌触り、そしてバングラデシュ という一つの国の喧騒と可能性の光が見えていた。それらが言葉にならず悔し泣きという形でしか表現できない自分がいた。
あれから15年が経ち、私はネパール、インドネシア、スリランカ、ミャンマー、インドと生産地を立ち上げてきたけれど、いつだって、「できるんじゃないかなあ」という瞬間が訪れ、不信の連鎖の中に飛び込みながら信じる行為で輪の方向や色を変えてきたつもり。
でも本音を言うと、15年経っても「できるんじゃないかなあ」は「できる」という確信には変わっていない。
特にコロナになってたくさんの迷いや弱い気持ちが溢れてきてしまったこともあった。
クリエイションの焦りも不安も日々強くなるばかりで、コロナで遠隔になりながら生産地を守り抜くことも困難の連続だ。
きっと、私の中ではいつまでたっても、「できる」という確信は生まれないかもしれない。だけどこれからも「できるんじゃないかなあ」というスタンスは、どんな国にいてもどんな時代に突入しても持ち続けたいなあと15周年で改めて思った。
そして、15年間、5000以上の商品を作り続けてきて、漸くここ最近、自分の中で附に落ちたことがある。
実はこの言葉は、私が本当に作りたかったものなんじゃないかなって気がついた瞬間があった。
私が本当に作りたかったのは鞄や商品ではなく、「できるんじゃないかなあ」と可能性を信じる気持ちなんだってこと。
私に無茶振りをされて困りながら「やってみるよマダムー」と苦笑いする自社工場の職人。
新しいポジションに昇格して嬉しさ半分、でも自信のない顔をする日本のスタッフの背中。
お店で自分らしい鞄をみつけて、「これで仕事をがんばります!」っていうお客様の背中。
「できるんじゃないかなあ」と、恐る恐るでも一歩を踏み出そうとする人たちの背中を押すために、私は手を動かしているんだって漸く気がついた。
そう思うと、型紙がうまくいかなくて、諦めそうになっても、エネルギーが湧いてくるから不思議だな。
世界は、格差と分断の時代に突入したけれど、可能性を信じる個々人の総和が最悪の危機を回避しているのもまた事実だと思う。
マザーハウス というハウスはこれからも、「できるんじゃないかなあ」と世界中に届ける主体でありたい。
そして、「世界に通用する」ということを本気で叶えるためにやるべきことは山積している。長い歴史をもつ王者たちと肩を並べるために手を動かさなければならないし、研究していかないといけない。そして私はコロナになっても工場に対するロマンはずっと絶え間なく自分の中に存在する。最高の工場を作りたいんだ。
もうすぐ4ヶ月になる娘が物心ついて、バングラデシュに一緒に行けたら、長年の夢だった工場を見せられるといいな。
「これがお母さんが素敵な仲間と出会って作ったものだよ」って言えたら最高だな。
これが模型図。未来予想図はここにたくさんの笑い声が聞こえること。
追伸:15周年を記念して、本当に小さな、「手のりバッグ」を開発しました。
なんだか、愛でたくなるものを、本気で作りたくって。そして小さいからこそ、15年の工場の技術の蓄積が表現できるような気がして。
かわいいでしょう?
さあ、これからも、作ろう!!!!