西インド出張手記
先月、西インドに行ってきた。
西インドの新しい地域を巡って、いろいろと人生やものづくりなど、考えることがあった。投稿する意図のない日記をたくさん書いていたが、せっかくなので少しnoteに投稿しようと思う。
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今、西インドのアーメダバードから5時間の寝台列車の中にいる。
手仕事の村ブージに向かう途中だ。
旅の始まりは、ガンジーさんの活動拠点、アーメダバードからだった。
アーメダバードの朝陽を見ると、場所の力か、景色が美しいからか、なんだか胸がゾワゾワした。
アーメダバードでは、ガンジーさんのミュージアムに行ったりした。
彼の生き方を遠くから眺めることで、服とは、装飾ではなく、哲学表現なんだと、またガンジーさんから大事なことを学んだ。
私は途上国と先進国を行ったり来たりしながら生きてきた。
その20年の往復で培われた自分の精神性とは何か。
それは、自然と文明の間にある、一番最適なバランスを探す旅のように思う。
また両方に通じるものとは何か、ということも同じように探してきたと思う。
人は自然の中の一部だった。その中で人間は希望を見出しているのか、自然にとって破壊者になっているのか、揺れている現代。
人間と自然の新しい握手できるポイントがあるのかを、先進国の文明、進化に触れ、方や途上国の原始的な生活に触れ、それを模索し続けているように思う。
先月は米国のLAにいた。今月はインドにいる。
LAでは、道に配達ロボットが走り、車はその横で充電している。
インドでは牛の方が人間より堂々と歩き、草木から染料を取って衣服を染めている。
私たちは、どのように自然と向き合い、また付き合っていくことが望まれるのだろうか?
アーメダバードの街から列車で2時間のスーラトは、大規模な化学繊維工場が立ち並ぶ。
皮肉にもガンジーが活動した場所の隣町。
一日5000mを機械で織り上げる。
全て自国むけに出荷し、そこから服が作られる前に再びリピート発注がくるスピード。
24時間工場は稼働し続けるため、隣にはファストフードの24時間営業店が並ぶ。
工場には、石油系の匂いが充満していた。
ポリエステルを扱う。
そして、数箇所訪問しながら、手仕事の工房にいる職人と、働く人たちの表情がやや異なることに気が付く。
もちろんカメラを向けたら、笑い、みんなテキパキ動いている。
しかし、奥深いところの尊厳や、誇りがあるかというとそれを感じるのは私のバイアスもあってか、難しいように思えた。
その理由を、工場から帰った後も考えていた。
そして、思ったのは、大量生産の主人公は、機械であるこということ。
機械が主人公であり、人間はその補助役にまわっている。
機械が止まった時に、ささっとリセットをしに人間は動く。
機械の仕事が終わったと思うと、その素材をワゴンに入れるのが人間。
大量生産の基礎は、機械が主で、人間が従。
そして、そこで作られたものは、誰がそこで働こうと一切変化することなく、均一で、画一的な品質が一定のスピードで生まれる。
「作り手」という言葉はここには存在せず、ここでは、人間は代替可能なんだなあと感じた。
人ではなく、「この機械はイタリアから輸入したんだ!」と工場長は誇らしげに言っていた。
そしてこの生地はどうだ、この生地はどうだ、と作ってきたものを私に見せるが、全てポリエステルで奇妙なシワがあり、人工的な光沢感がある。
投げるように生地を見せる工場長から、私は1秒でも早くここを立ち去りたいと思った。
もちろん、管理体制や品質、素晴らしいポイントも多いが、一般的に化学繊維の素材を身に纏うことは人間にとってどんな意味を持つのか、そして私が生理的にどうしても受け付けないと感じてしまう嫌悪感はなぜだろうか。
私は、化学繊維を纏うと「皮膚呼吸ができない」と感じる。
皮膚が外と触れ合いたいのに、そこに壁があるような感覚。
寒いな、暑いな、湿っているな、澄んでいるな、地球のさまざまな変化を感じ取りたくても遮断された感覚は、どんなに素晴らしい情景も100%満足に味わうことを邪魔しているように思える。
途上国の人は、よく天気予報がなくても天気を知ることに長けている。
バングラデシュでもネパールでもラオスでもそうだった。
彼らは風が吹くことさえ、予想することができる。
現代、人間を取り巻く多くの化学繊維や人工物は、本来私たちが持っていたこうした天性の感性を、奪っているのかもしれない。
細胞を劣化させ、感性を鈍化させ、人間の感性を汚し、間接的には私たちが本来持っている生命力そのもの、ひいては、美しい精神をも奪っている可能性がある。
それら人工物がいかに快適さやスピード、あらゆる機能を持ち合わせようと、人工物は私たちに生命力を与えないし、自然からの生命力を感じる機能はどんなに文明が発達しても、きっと持ち得ないだろう。
そしてそれが、スーラトの大規模な化学繊維工場で働く人たちと、手仕事の村ブージで出会った職人たちの、表情が異なる素因にもなっていると思った。
私たちが本来、人間らしくあり、健やかに生きていくためには、自然と共存、自然を感じる感性を持ち続けなければならない。
それはずっと自然の中に身を置くということではなく、普段の生活の中で、衣食住に関するさまざまな選択肢から、自然素材を選ぶなど、足元からできることはあると思う。
特に、衣という第二の皮膚がちゃんと機能するために、自然素材を纏うことは、人間の生命力ある活動を助けると実感する。
そして健やかな発想、思想は、私たちの生活である「衣食住」の健やかさが基盤となる。
そしてそれは、自然の上手な取り込み方があって生み出されるものだと思う。
自然素材を敬いながら加工し、人間の心に高揚感が宿るものを作るということ。
大きく捉えると、自然を敬いながら、人間が文化をもちながら、幸せになれる方法の模索。
私は、それらを、ものづくりを通じながら考えていきたい。