田辺の模擬原爆
大阪から広島に来てよかったことはいくつかあるが、その内のひとつは「原爆(戦争)の話がより身近になったこと」だ。
現在はわからないが、少なくとも20年程前の大阪の小、中学校で平和教育を受けた記憶はない。道徳や歴史の授業の中で言われる『戦争はいけない』という言葉のみを「まぁ、そうだよね」というくらいの認識で受け止めていただけだと思う。
高校に進学した時、その周辺地域が「からほり(空堀)」と呼ばれていて、古民家や長屋がたくさん残る町並みをとても気に入っていた。古い家のおもむきはそのままに改装されたカフェや雑貨屋、ギャラリーがあり、卒業後もよく通っていた。
からほりになぜそのような町並みが残るのかと言えば「戦火を逃れたから」で、当然ではあるがその周辺は空襲で焼けたということ。戦争のことを教育の中でほとんど触れられずに過ごしてきた10代の若者がそのことにハッとするまでに随分と時間が掛かった。
小学生の頃に図書室で「はだしのゲン」を読みかけてその恐ろしさに数ページで本を閉じてしまったことを、ふと思い出す。
誰かに教えてもらいたかったけれど、知れば重く、暗く、辛いものでもあり、知り過ぎるときっとしんどい。今思えば、昔の自分はそんな風に考えていたと思う。10代の自分にとってからほりの散策は不安定な日常からの現実逃避の一つであり、そんな時間に影を差すのが単純に嫌だったのかもしれない。そんな風にいくらでも史実から逃げることができた。
大阪では1945年3月13日から8月14日までに8回の空襲があったが、その間大阪には原子爆弾と同じ形の模擬原爆というものが投下された。
大阪市東住吉区田辺。東住吉区は私の地元だが、そんな話を数年前まで全く知らず驚いた。
田辺の恩楽寺の近くにその爆弾は投下された。当時「1トン爆弾が落ちたのか」と思われたが、原爆の練習用模擬爆弾のその重量は約5トン。原爆と同じ形状、大きさ、重さの爆弾だった。
ところで、なんだよ「模擬」って。「練習」って...なんなんだよ。
この模擬原爆は50発準備されて、49発投下されている。全て原爆の「練習」。
忘れないために、語り継がれることはもちろん必要だけど、でも同時に想像以上に私のような無知があることを見逃してはいけない。
日本の公教育に絶望しかけている私が親として子に伝えていくために、これからも知ることを辞めてはならないとかつて過ごした地元での出来事を知り、改めて考えている。
〇パンプキン爆弾(Wikipediaなので、参考程度に...)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%97%E3%82%AD%E3%83%B3%E7%88%86%E5%BC%BE
〇模擬原爆資料館・恩楽寺
https://www.onrakuji.com/%E6%A8%A1%E6%93%AC%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8/
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