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【ピアニストエリコの日常 ③ ピアノの蓋を開けたら「ラ」と「ミ」が無かった件】

「エリコの日常 ③」

2014年6月16日の記 「ピアノの蓋を開けたら『ラ』と『ミ』が無かった件」

振り返れば演奏家生活も随分と長くなった。強行軍のスケジュールで辛いこともあったが、楽天的要素を多分に有した我が記憶は都合よく風化され、過去は壮大なオーロラに照らされたが如くキラキラと光芒を放っている。

今日も或る美しい旅について思い出した。

ポーランドツアー中のこと。まちの名前を失念してしまったが、私たちは緑溢れるその地で室内楽のリサイタルを弾く予定だった。

会場は、カントリーハウス (その昔、貴族が領地に建設した壮大な建設物) と言えばよいだろうか。それは美しい大邸宅、否、城と呼んだ方がふさわしいかもしれない。ボールルームとして使用されていた巨大な応接の間に入ると、繊細な彫刻が施されたグランドピアノが優美そのものの佇まいで中央に置かれていた。

ピアニストがピアノの蓋を開ける瞬間...。禁忌のパンドラの箱を開けるにも似た、ほとんど淫靡なまでのモメントゥムである。私の胸はいつものように激しく高鳴った。

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photo: Kamil Milewski

しかしその時、私の目を射たのは当然あるべきはずの白黒88鍵ではなかった。

鍵盤に、鍵盤に、2箇所黒々とした穴が空いている!

遠くで潮騒が私を招く気配がした。四尺玉のおおだま花火が脳内で無限に打ち上がった。錦鯉の尾がピシャッと水面を打ち、京都詩仙堂のこけおどしがコンと鳴った。

... 私は1分ほど白眼のまま白昼夢の中を溺れていたらしい。

離脱した魂が生身のエリコに戻ると、私は恐る恐る鍵盤を調べた。あゝ、幻覚なんかでは無い。おへそ近くに位置する「ラ」と「ミ」のキーが完全に欠如している!

ところで、我々のプログラム一曲目はモーリス・ラヴェルの名曲中の名曲、ピアノ三重奏《イ短調》である。そして、その曲の冒頭は「ラ・ド・ミ」で構成される三和音から始まるのだ。つまり、つまり、「ラ」と「ミ」がないこのピアノ、残るは「ド」のみではないか。

あゝドラミちゃんよ、我を救ひ給へ ...。

事態を察知したヴァイオリニストの母 (ポーランド人ピアニスト。私たちに同行していた)がキッと顔を上げて私に告げた。「エリコ、私たちはプロのピアニストでしょうっ。どんなコンディションのピアノでも弾きこなすことができる者のみがプロと名乗れるのですっ。」

... おおっ、これぞプロ魂。これぞポーランド人の不屈の精神。

しかし、ネタ (この場合「ラ」と「ミ」のピアノ・キー) とシャリ (ピアニスト)が揃わずして、どうしたら寿司が握れるというのだ。チリを欠いた海老チリを、ジンを欠いたジン&トニックを作れと彼女は私に要求しているのである!

未完の名作「ガラスの仮面」の月影先生と化したお母さまから、同漫画の主人公、北島マヤに対するのと同等の大型試練を課せられた私。二人とも白眼、顔には縦線が無数に入り、もはやこの両者に世間のロジックは通用しない。

事態は悪化の一途を辿った。なんと地元のテレビ局が入り、コンサートは生中継されるというのである。「ラ」と「ミ」が抜けたまま、大天才ラヴェル作曲のピアノトリオ《イ短調》が、公共の電波にのってしまう!

白眼を剥いたまま、私は最終リハーサルに入った。

... その後のコンサート並びにテレビ局取材の記憶がプッツリと途切れているのは不幸中の幸いである。私は人間の忘却機能を愛する。そう、冒頭に記したように我が過去は今日も陽光に輝いている。

... いや、オーロラがウンヌン・カンヌンと書いたような気がしないでもないような。

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(写真は全て、久々にポーランドを再訪した2019年に撮影)

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