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世の中のお母さんが幸せになったら良いな、と思うわけです。

4,5年前から自分の生き方を少しずつ変えてきた。
その結果、子供がお外でいじめられたり嫌なことをされても、なんとも思わなくなった。これ、すごく大きな変化だと思う。
んだけど、突然意味わかんないと思うから説明さして。

子供ってね、親が自分を一番投影しやすい存在なんだと思うの。
だから、自分の子供がいじめられたり、あるいは挫折して傷ついたりしたときに、自分の中に持っているネガティブを子供に投影してしまう。

自分の子供が大事にされていない、存在を無視される。否定される。
それは、自分自身が、自分は大事にされないっていう信念を、子供を通して見ているということ。


私の子供が1、2歳くらいのときかな。
公園の遊具に小学生くらいの大きな子供達が溜まっていて、うちの子が何もわからず入って行き「なんだこいつ?」みたいな空気になっていたところ、
その集団の一番ボスっぽい男の子がうちの子に向かって"I hate you!"って言ったわけ。

その子も仲間の手前イキったというか、言った後に言い過ぎた、みたいな顔をしていて
子供ってイキった結果残酷なこと言うことあるって私も頭ではわかってるんだけど、
やっぱりそうは思えなくて、自分の子供が拒絶された悲しい気持ちで公園を後にしたという思い出がある。

でもそう思ったのは私が、自分は世界に受け入れられない、否定されているって信じていたからだった。
他にもいくつかそんなことがあって、その感情を一つ一つ見ることで自分の信念に気付き、それを外していった結果、今は本当になんも思わなくなった。

別に息子は今でも普通に(?)いじわるな子に嫌な事を言われて大泣きで戻ってきたりとか、入ってくんなと言われてたりとか、ちょっと手荒なお友達にひっぱたかれたり笑、してる。

それがハッピーかって言われたら違うけど、
でも、いじわるな子も乱暴な子も世の中にはいて、生きてればそれに遭遇することだってあるし、それも子供の経験だし、いつかは自分で処理していくものだし、
まあ良いんじゃね、って感じ。
泣いてたら慰めて、次あったらどうしようかって一緒に考えるし、必要な対処があればするけれど、
私がその出来事に対して感情を動かすことは無くなった。

だって、周りの誰が何をしようとも、
私が、私の子供が、そのままで完璧な存在だってことは変わらないもん。
それを、ちゃんと信じられるようになったから。


で話は変わって、今日ね、うちの子がお友達からおやつを貰った訳です。
それで私は、息子のために1個だけ持っていた大好物のチーズをお返しにあげたの。その子のお母さんと数日前にそのチーズの話をしていたから。
その場にはもう一人お友達がいて、私が気づいたらその子が「僕はもらえないんだ・・・」みたいな顔をしていて(マジで私そういうの下手くそで。今度からちゃんと予備持っとくわ)。

で謝って明日持ってくるね、と言って帰ったんだけど、なんかずっとそれが頭から離れなくて。

なんでかなって考えたら、私が引っかかっていたのは、
拗ねてしまったその子ではなくて、それを見て少し悲しい顔をしていたお母さんの方なのね(いや、私のせいなんだけど)。
実際その方は大して落ち込んでないと思うんだけど、
私は、子供を通して自分のネガティブな感情を見て傷ついていた昔の自分を思い出して、
そういう感情にさせてしまったことに私が落ち込んでるんだと理解した訳です。

じゃあ、そっから私は何を掴んで浮上しますかってことなんだけど、
世の中のお母さんが幸せになれば良いなと思うの。

だってさ、
子供って自分の感情を最大限投影してしまうくらい大事で身近な存在な訳でしょ。
それを通して、大きくても小さくても、ネガティブなことを見て落ち込み続けるのしんどいじゃん。
まず対処すべきは子供じゃなくて、自分なんだよ。

なんかね、周りにいる人を見てて
みんな普通に恵まれてて幸せそうだし、本人も自分は幸せだって思ってるんだろうけど、
ああ、この人不安なんだな、って感じることがちょくちょくあるの。

これは私が上から目線で「お前はホントは不幸なんだ」って言ってるのではなくてね。
なんかみんな、そういう心の隙間とか、不安を持って生きてるんだなって感じるの。

昔、武〇鉄矢が、
「夫婦っていうのは、辛いって思ってても10年に一度いいことがあれば続けられるものだ」
って妻の苦労を良い話風に言ってて、そんなわけねえだろって思ったんだけど(みのもんたかもしれない)
人生は辛いことも悲しいこともあってそれが味になる、みたいな風潮、私は嫌なんだよね。

だから、毎日心からハッピー、みたいに皆がなれば良いなと思っている。
そういうことを自分を通じて出来ればいいな。

少し長くなったけど。
またね!



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