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コロナ禍とお絵描きの話。

この間、星野源さんのエッセイ本を読んだ。いろいろと疎い私ではあるが、星野さんの才能と人気と活躍ぶりはそれなりに見聞きしていて、この方の書くお話はきっと面白いだろうと思って、電子書籍で本を購入したのだ。思った通り素晴らしかった。私が読んだのは2009年に出版された彼の初のエッセイ本で、長いこと星野源さんファンである友人たちからは「この頃はだいぶクズで、そのクズっぷりが凄くおもしろいよ」と勧められていたのだが、本当にその通りで最高だった。心に残る文言や、何度も読み返したい箇所がいくつもあった。おもしろかったな。紙の書籍でも買いたいな。そんな事を考えながら、先程その中に書いてあった “自分なくし” の部分を、ちょこっと思い返していた。うろ覚えで正確ではないが、エッセイの中で星野さんは、彼が音楽やお芝居をされているとき、稀に、普段は自意識でがんじがらめになっている自分から解放され 感覚が研ぎ澄まされて 楽しくて仕方がないような瞬間が訪れる事がある、というようなことが書いてあった。これはプロのアスリートなどがいう謂わゆる『ゾーンに入る』という事と似たようなものだろうか。脳からエンドルフィンが出ることにより、集中力が高まり、雑念から解放され、持っている力の全てを遺憾なく発揮する事ができ、最高潮のパフォーマンスを遂行できる状態のことかもしれない。スーパーマリオでいう無敵スター状態みたいな。テテテーテ♪テーテレテッテー🎶テテテーテ♪テーテレテッテー🎶 (あの音楽) そりゃ楽しくて仕方ないやつだ。

エンドルフィンは、人間の脳から出るホルモンの一種である。幸せホルモンと言われているものらしい。自然なホルモンなので、たぶん条件が揃えば誰でも出る。星野源さんやプロのアスリート選手のような、特別な才能と技術や力を持った人たちは、その脳内ホルモンの効果によって、彼らのもっている力がMAXで発揮され、最高のパフォーマンスに繋がるのだろうが、まぁそんな大仰な話じゃなくても、普通の私たちレベルでも、楽しくワクワクしてノってる気分のときは、出ているのだと思う。なんだかイケる気がする♪ ワタシ出来る♪ の、あれだ。たぶん。

私にも、自分なりの脳内ホルモンが出ていると思うときがある。絵を描いているときだ。…うん。え?じゃあ、私は なんだかイケる気がする♪ ワタシ出来る♪ って思いながら絵を描いているって事なの??自分で言っちゃって恥ずかしくない??とも思うのだが、ここを認めないと話が先に進まないので言ってしまう。そうですちょっと思ってます。恥ずかしぬ。

子供の頃から絵を描くのは好きだった。私は幼児期に身体が弱かった。けっこう重度の小児ぜんそくを患っていて、小さい頃は、しょっちゅう病院に入院していたし、幼稚園も休んでばかりだった。療養中に暇だった私は、落書きやぬり絵を良くしていた。リボンがたくさん付いたお姫様やお花の絵を好んで描いていた。あの頃はずっと描いていたので上手くなったと思うし、周りから褒めて貰えたので得意気になって、絵を描く事がとても好きになった。しかし、小学生になり喘息もすっかり快癒し、中学生になって部活動に入ったりして普通に忙しくなってからは、絵を描く事も少なくなっていった。美術の授業は好きで、学習課題で絵を描かされるようなことは苦痛じゃなかったし、むしろ好きではあった。でも、そんな機会以外には、特に自分から絵を描くような事は無くなっていった。そんな感じだった。

そんな私が、自ら好んで絵を描くようになったのは四十路を超えて、推しが出来たからだ。俳優の田中圭さんの大ファンになって、熱心に眺めているうちに、似顔絵を描いてみたくなったのだ。ごめんね、キモくて。

はじめから描いていた訳ではない。ファン歴2年目の2019年に放送された大ヒット連ドラ『あなたの番です。』の反撃編がきっかけで、私は絵を描き始めた。

圭さん演じる翔太くんが、とある悲しい出来事を経て、その顔つきがガラッと変化した回があったのだ。同じ人物なのに、醸し出す空気というか、オーラが違った。そのお芝居の表情の変化が素晴らしくて素晴らしくて、私は心の底から痺れた。居ても立っても居られない気持ちになった。これを!この表情を!!絵に描けたらどんなに素敵だろうか??!!とテンションが爆裂にあがって(キモくてごめん)、その辺にあった紙と鉛筆を掴んで、勢いで描いてみたのだ。

これが、全然上手く描けなかった。その当時すでに私が入り浸っていた推し活ツイッター界隈には、”絵師“と呼ばれるイラストを投稿している方達がたくさんいた。漫画的なイラスト、デフォルメのチビ絵、模写絵、デジタル絵、アナログ絵。どの絵も素敵で、いつもTLに流れてくる様々な絵をみて、密かに憧れていた。私も絵は苦手ではない方だし、もしかして描いてみたら描けるかも??なんて甘い考えで手を出してみたのだが、思うのと実際に描くのとでは大違いだった。私が痺れたあの推しの表情は、全く描けやしなかった。難しすぎた。でも、なぜか描いていたとき凄く楽しかった。良く分からないけれど、自分でもびっくりするくらい楽しくてワクワクしたのだ。たぶん出ていた、エンドルフィン。

そのとき描いた翔太くんの絵は、全然うまくなかったのだが、描いて楽しかったハイテンションのまま、写真を撮ってツイートしてしまった。世界発信のツイッターに自分の落書きを晒すのってどうなの?恥ずかしくはないの?と1ミリくらいは考えたけれど、そこは別に良いかと思ったのだ。ツイッターの世界はわりかし自由だと、私は考えている。誰かを傷つけるような事や悪意を持ったもので無い限り、思いっきりアホな事でも、拙いものでも、くだらない物でも、自己責任である程度は自由につぶやいて良いと思っている。私の拙い絵をみて、世界のどこかで誰かが悪態をついていたとしても、別にいいや と思った。絵が上手いかどうかなんかより、描けもしない絵を思わず描いてしまうくらい感動した!!って気持ちの部分には多少の面白味があると思うし、それを発信することは別に悪い事ではないと思ったのだ。このとき描いた絵は、仲良しさんが おひねり程度にイイネをしてくださり、素直にとても嬉しかった。あと、描いたときのワクワク感が忘れられなくて、ここから私の中でお絵描きブームがはじまった。

大胆不敵にも、憧れていたツイッター絵師様たちに質問をしたり、アドバイスをもらったりしながら、画材を少しずつ揃え、あれこれ試行錯誤を繰り返しながら、圭さんの似顔絵をたくさん描いていった。絵を描くのは難しかったけれど、同時に凄く楽しかった。スケッチブックに向き合って無心で線を描き、色をのせていくと時間を忘れた。何枚も何枚も描いていくうちに少しずつ上達もしたし、描いた絵をツイッターに投稿するとぽちぽちとイイネを貰え、フォロワーさんが増えたり、絵をきっかけに話しかけてくれる人が増えたのもとても嬉しかった。絶え間なくメディアで活躍し続ける推しの姿をみながら、その活動を追いかけるように嬉々として描いていった。

そして、この絵を描くという行動は、一過性のマイブームでは終わらず、その後も継続した。というか、このすぐ後に、絵を描くことが私にとって大きな救いとなっていったのだ。大袈裟じゃなくて。コロナ禍が到来したからだ。

私はイギリスで看護師をしている。いきなり何言ってんだ?と思わないで欲しいが、私は日本で看護師として数年ほど働いた後に、海外でも働いてみたいと思い、二十代半ばで渡英したのだ。英国の看護資格も取得し就職して結婚して、そのままイギリスに住み続け、20年以上の間イギリスの病院で働いている。これを書いている今現在も英国某地方で暮らしていて、仕事は看護師をしている。

2020年に、初めてコロナの事例が報告された頃も、この某地方都市の大学病院でいつものように働いていた。その時にはIVR室勤務になっていたが、その前はICU勤務だった事もあり、コロナ禍のパンデミックのときには出向してICUの最前線でも働いたのだ。

今でも良く覚えている。2020年3月、ボスが神妙な顔つきでスタッフミーティングをひらいた。中国の武漢で発生したらしいCOVID-19という変種ウィルスが、英国にも上陸した。どうも厄介なウィルスのようで、私たちのいる地方都市にもこのウィルスがやってくるのは時間の問題だ。地域の医療を担う大学病院として臨戦体制を取らなければならないので心の準備をするように、と告げられた。

私たちはこの話を聞きながら『そうは言っても…大丈夫…よね??』という気持ちでいた。医療現場で働く人はわかると思うのだが、この世に存在する厄介なウィルスはコロナだけではない。私が覚えているだけでも、鳥インフルエンザやエボラ出血熱など、いずれも強力で厄介なウィルスの事例は、過去にもこの病院にもやってきて、厳重臨戦体制を要したことがあったが、なんだかんだで数週間で解決していったのだ。今回のコロナもそうであるかも知れない…という思いもあった。厄介なウィルスかもしれないけれど、数ヶ月したら落ち着くかもね…そんな風に思っていた。

ところが。そんな甘い考えはすぐに吹き飛ばされた。出向されていったICUは今まで見た事もない有り様になっていた。私が働いていた時は約30床くらいだったICUが、倍の約60床に拡大されていた。あ、ちょっと分かりにくいかな。そうだな。例えば、あなたの生活圏内で一番大きなスーパーを思い浮かべてください。そこのレジはいくつありますでしょうか。15箇所?20箇所?普段はそのレジの数で、買い物客を捌いているのだけれど、客の数がとんでもなく多すぎて、レジの数をいきなり倍数に増設された感じです。1〜2個増やした訳じゃありません。いきなり倍です。完全に異常事態だった。隣接された循環器病棟のベッドを全てICU用に変換して対応しなければならないほど、現場は重症患者で溢れかえっていた。あり得ないくらいヤバい事態になっていた。

基本的にICUで治療を受ける患者さんとは、命の危機にさらされている超重篤状態にある。多くの場合、人工呼吸器で呼吸の管理をして、それに伴い鎮静剤や昇圧剤なども併用している。たくさんの医療機器や薬剤でギリギリで生命を繋げながら回復を目指すという治療下にある。通常は、そのような状態の患者さんは、そんなに多くいるべきでは無い。医療では、短期集中戦で患者さんの状態を回復させ、人工呼吸器からも離脱させて、出来るだけ早急に一般病棟に転科させる事を常に目指しているからだ。

ICUで患者をケアする看護師は、24時間付きっきりで、この人工呼吸器を管理し、処方された薬剤を正確に投与し、輸液と排出のバランスを計測記録して、慎重に清潔ケアをする。これは例えるならば、絶え間なく火加減を調整して頻回にかき混ぜて付きっきりで見ていないとあっという間に焦げ付いてしまう料理をしているような状態である。いや、これもわかりにくいかな。つまり、なんだろ。ちょっとでも火加減やかき混ぜ方を間違ったりすると、目の前の命が亡くなってしまうので、ICUでの仕事は独特の緊張感が付き纏う。そして、患者さんが重篤であればあるほど、その火加減の調整やかき混ぜ方に複雑な工程がどんどん増えていって、鬼ハードモードになるのだ。

さて、倍の数に増床したICUでは、それに伴いスタッフも他部署から集められて増員された訳だが、私のようなICU出戻り組は1/3くらいで、看護師なりたての新米さんや、急性期ケアも未経験のスタッフも多かった。ICUへの出向は、決して強制では無かったし、皆それぞれコロナに立ち向かおうと気概を持って集まった人達だったが、この仕事はやる気だけで何とかなるものでは無かった。十分な知識や経験がないのはやはり厳しい。目の前の仕事が辛くなってしまって、泣きながら働いているスタッフもいっぱいいた。ICUの現職スタッフや経験者組も辛かった。私たちはハードモード担当に割り当てられ、自分の業務でも鬼忙しいのに、近くで仕事がわからなくて立ち往生しているスタッフのサポートにもまわった。本当に過酷だった。防護マスクの下で、みんな泣いていた。

そうだ。防護服だ。あれも本当に辛かった。イギリスの病院にはエアコンがない。そう。無いのである。と言うのも、気温が25度を超えるような日が年間で15〜30日程度しかないからだ。そんな感じなので、エアコンがない。通常は半袖のユニフォームで仕事をしているので、多少気温が高い日があったとしても、窓を開けて扇風機を回し、エアコン無しでも凌げるのだが、コロナ禍ではFFPマスクをつけて、その上にフェイスシールド、長袖の防護服を厳重に着用して扇風機も厳禁での仕事だった。口からウィルスが侵入するという情報もあったので、休憩時間以外は水分も取れない。一時期、夏場で不織布製の防護服の在庫が無くなり、ゴミ袋のようなビニール素材の長袖エプロンを着なければいけなかったときは通気性もゼロで、本当に暑くて苦しくて辛かった。体調を崩す人も続出した。私も熱中症のような症状が出て、仕事後にぐったりと寝込んだときが何度かあった。

気持ちも落ち込んだ。防護服を着ているとはいえ、コロナウィルスが目一杯に蔓延した中でずっと働いているのである。自分がいつ感染しているかもわからない。人に会わなかったのは勿論だが、自分の家でも家族との距離をとるしか無かった。

英国ではロックダウン政策もあった。食料品を売る店以外は、全て営業停止になり、学校もオンライン授業となり、人々は外出も厳しく制限された。町はゴーストタウンのようになった。その風景は薄気味悪く、まるでホラー映画のようだった。悪い夢みたいだった。でも、紛れもない現実だった。いつもウンザリする程の渋滞だった通勤路も、私の車以外まったく走っていない。普段は渋滞案内をしていた道路脇の電光掲示板には、政府が掲げた Stay home, stay safe (家にいて。安全でいて。)のスローガンが警告色で点滅していた。それをみながら、あぁ…私はこれから家から出て、安全でない場所で働かなくてはならないのだ、と実感して、びゅっと涙がでた。

これは多くの子供を持つ親がみんな同じ気持ちだったと思うが、子供たちのことも心配だった。我が家の息子たちは中高生になっていたので、親とベタベタするような年齢でもなかったし、自室にこもってオンライン授業やYoutubeを見ている事は、そこまで苦痛そうでは無かったが、本来ならあの年齢の子供達が持つはずだった普通の学校生活も無くなってしまったのだ。子供たちのメンタルや学力への影響も心配で、考えだすと不安でいっぱいになった。私と同じように海外で子育てしている国際結婚の日本人の友人もいるが、彼女たちは往々にして教育熱心である。グループラインなどで、厳しいロックダウンの中、いかに学力を保持するために、母親として熱心に頑張って苦労しているかのトピックが出ると、私は劣等感を感じてしまい、次第にその交流からも離れていった。

ある日の担当患者さんは、フィリピン人の看護師さんだった。連携病院で働いていた方で、コロナ病棟での仕事から感染した。とても重篤な状態で、人工呼吸器をつけて昏睡状態にあった。その方は、私と同じくらいの年で、背格好も近くて、カルテをみたら私の子ども達と同じような年齢のお子さんがいらした。勤務中は余計な事など考えずに集中して仕事をこなしたが、家に帰ってからは、人工呼吸器をつけて横たわる彼女の姿を思い出し、私もあのようになってもおかしくはないのだという事実をひたひたと実感して怯えた。私、死んでしまうのかなぁ。いやだなぁ。もう日本にも帰れないのかなぁ。美味しいお寿司もう一回食べたかったなぁ。日本の家族や友達にも会いたかったなぁ。もう無理なのかなぁ。そんな風に考えだしてしまうと、不安が止まらなくなって、はらはらと泣けて仕方なかった。

そんな日々の中、私は出来るだけ何も考えたくなくて、スケッチブックを取り出して、ひたすらに絵を描いたのだ。現実逃避だった。過酷で孤独で苦しくて不安でいっぱいの現実から、せめて心だけでも逃したのだ。

絵を描いているときは、なにも考えずに済んだ。推しを穴が開きそうになる程じっと見つめ特徴を読み、意識を集中して紙面に慎重に線を引く。思ったように線が引けると、一瞬でテンションが爆裂に上がった。そこに色鉛筆で何色も色を重ねていった。色が混ざりあい深みを増して、好みの色彩が現れてくると心が躍った。時間が許す限り、私はひたすらに絵を描いた。そして、描いた絵をSNSに投稿し続けた。

Clap for our Carers (ケアラー達に拍手を)というものがあった。当時の英国政府が主導したキャンペーンの一つで、医療や介護従事者、物流などに関わるエッセンシャルワーカーへ感謝の気持ちをあらわす為に、毎週木曜日の夜6時、皆で一斉に拍手をしようというものだった。国営放送BBCでの中継もあった。英国首相が首相官邸から現れて、コロナと戦うエッセンシャルワーカーへ感謝の言葉を述べ、皆で拍手をするというものだった。英国各地では、この中継に合わせて、皆それぞれの家から玄関先の道路に出てきて、ソーシャルディスタンスを保ちながら、エッセンシャルワーカーの働きを讃えた。またこのとき、ご近所さんの顔をみて人々は『元気でいる?』『大丈夫?』などと言葉を交わしていた。ゴーストタウンと化していた町が、束の間に生き返る瞬間だった。人懐っこくて、ご近所付き合いが活発なこの地では、この時間を大事にしていた人たちも多かった。ご近所さん達は、私が看護師なのも もちろん知っているので、良かったら顔を出して挨拶したら?と夫からも促されたが、私はどうしても鬱々とした気分が拭えずに、家の中に引き篭もり、一度も顔を出す事はなかった。毎週の木曜日の拍手なんて要らなかった。

そんな事よりも、SNSに投稿した絵につくイイネの方がよっぽど嬉しかった。日々の過酷な仕事も、コロナ感染への恐怖も、心身の疲労困憊も、厳しいロックダウンも、我が子の将来の不安も、全て目の前に広がる逃れられない現実だった。逃れられないから、心を無にして必死で働くしかなかった。機械的に働きながら、現実を見ないふりして、ただただ逃避でスケッチブックに向かい絵を描き続けたのだ。そんな風にして描いた絵に、私がコロナの現場で働いているとか、そんな事を知らない遠い世界から、ぽちぽちイイネが届くのが、よっぽど嬉しかった。イイネを受け取るたびに、私の直面している現実の上に、カラフルな甘いシュガーコーティングが施されていくような気持ちになった。どんどん描いて、どんどん投稿して、ツラい現実を出来るだけ包んで覆っていった。

コロナ禍で働く医療従事者はヒーローなんて言われていたけれど、私にとってはエンタメを提供する人たちがヒーローだった。あの頃、感染対策をしながら、創意工夫を重ねて、懸命にエンタメを作り上げてくれている人たちの姿を見ると、心が震えた。人間って、どんな状況になっても、強いし頑張れるし希望を持てるんだって、そんな風に思えた。推しを推しているという事もあるが、描いた絵に作品名のタグをつけて『作品みてます!おもしろいです!楽しんでます!』と呟くことで、推しだけでなく、コロナ禍の中で懸命にエンタメを作っている制作スタッフさん達にもエールが届くかも知れないという気持ちでいた。ずっと力をもらっていたし、何かポジティブな気持ちが届けば良いなと思っていた。

日本の家族や友人には、絵を投稿している私のインスタを見てくれと告げた。さすがに家族や友人は、私がイギリスで看護師として働いていると知っていた。最終的にコロナウィルスは、世界中であのような猛威を奮ったわけだが、初期の段階ではイギリスの惨状が特に大きく報道された事もあり、心配して連絡をくれた友人も多かった。私は『仕事は凄く大変だけれど大丈夫よ。なんとか頑張ってる。ところで今、推しが出来てハマっている。気晴らしに似顔絵を描いているの。元気にしている証にインスタに絵をあげているから良かったらみてね。笑』と告げておいた。驚かれたけれど、笑って貰えた。投稿した絵に、友人達からイイネがつくと、私のことを気にかけてくれたのだとわかり、温かい気持ちになったし、ほっとした。この際、絵が上手いとか下手とかはどうでも良かった。定期的に投稿したら、丁度良い生存確認にもなるとも思ったのだ。SNSの投稿は承認欲求だと言われている。それでも良いじゃないって思う。私はあのとき、遠くに住む家族や友人に、生きているよ と私なりのシグナルを送りたかったし、イイネが届くと、自分の存在ごと承認して貰えた気がして安心した。とても救われていたのだ。あと万が一、私に何かあったときには、最期まで楽しそうに絵なんか描いちゃって、好きなことをやって幸せだったのだなって思って貰えたとしたら、それも悪くないと思っていた。死ななかったけれど。笑。良かったよ。大丈夫だった。うん。因みに、ツイッターの方は、オタクとして狂った呟きが多すぎたので、絶対に見ないで欲しいとも釘を刺しておいた。さすがにそれは恥ずかしいじゃない。

ところで、なぜ今この様なnoteを書いているかというと、先日のニュースでコロナ禍から5年だと言っていたからだ。そうか。もう5年前なのか。感慨深い気持ちになった。そう言えば、最近はうっかり1ヶ月以上もインスタに描いた絵を投稿をせずに放置していたと気がついたのだ。もう私の生存確認の必要性も、蜘蛛の糸を掴む様な必死の承認欲求もすっかり薄れていることを実感した。今でもコロナウィルスは存在しているが、繰り返された変異のせいか、ワクチンの成果か、あの頃のような悲惨な状況にはなっていない。時は流れたのだ。そんな事を噛み締めていたら、あの頃のことを過去の記憶として、整理して書き残しておこうかな、という気分になったのだ。書いたらすっきりする様な気がして。あの頃の自分の供養っていうか。大変だったよな。頑張ってたな私。もう終わったよ。良かったねって。

こうして改めて掘り起こして文章にしたら、コロナ禍は本当大変だったという記憶が蘇ってきて、なんか滅入ったけれど、それと同時に、推しの作品への感動や、たくさん描いた絵の事もたくさん浮かんできた。脳内ホルモンと楽しいことのシュガーコーティングの威力はたいしたものだ。因みに、インスタで私の様子を見守ってくれていた友人たちも、私はコロナ禍で仕事が大変そうだったけれど、同時にとにかく推しに狂っていて楽しそうだったよね、と思っているらしい。なんかそれも面白いし、悪くないなって思っている。それにしても長々と書いてしまった。でも、あのとき上手く言えずに蓋をしていた事を書く事が出来て、今とてもすっきりしている。年も明けて2025年になった事だし、この一年も楽しい事を見つけながら、自分なりに良い年に出来たらいいなと改めて思っています。読んでくださりありがとうございました。【終わり】

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