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白色の空色、黄色と青の空気

この時期、ドイツの空はモノトーンが通常運行。白か灰色か限りなく黒に近い灰色で、その辺りを行ったり来たりしながら一日一日が過ぎていく。地上は辺り一面霜の膜で白く染まることもあれば、突然それが溶けて枯れ葉の茶色や草の鈍い緑がいやに鮮やかに映ることもある。霧が立ち込めれば空と地の間も白だし、氷点下になれば丘の木々は樹氷で真っ白。空と地上とが同じ白の中に溶けるようで、それは布団の中に収まった安心感に似ていると思う。

この間は久しぶりに快晴だった。明るい光に溶けるような思いで温まりながら、光合成のことを考える。「バランスの取れた食事をしていても補いきれないのがビタミンDです」とラジオ·バイエルン第二放送で言っていたのを思い出した。
とにかく太陽を見ることが少ないドイツの冬。

子供の頃は冬といえば快晴だった。北関東内陸部の冬。クリスマスとお正月の間のある日、車で町中のベイシアに買い物に行った場面。それが「冬・快晴」のキーワードで一番に呼び起こされる私の思い出。
快晴の空の下に散らばる少し乾燥気味の松の緑やお飾りの赤、特売のみかんの箱やスーパー特有のメロディー。車から降りて賑やかなその中へ向かおうとする数分間。どうしてそれをはっきりと思い出すのかは本当に分からない。どちらかといえば退屈な休みの日の、どうでもいいはずのワンシーン。
脳の中にはたくさんの引き出しがあって、それぞれの引き出しにはたくさんの出来事が入っている。冬のベイシアはなぜか手の届きやすい引き出しの前の方に入ってしまっているらしい。

この間、窓から見えるお昼前の空が異様に青くて、その下に広がる針葉樹の緑や木の枝の茶色と全く違う次元にいた。
空の青は宇宙から来ていて、遠く遠くどこまで行っても手に届かないのだと想像した。そして私たちの日常生活は、巨大な地球という丸の表面すれすれの所で行われていることに過ぎないのだと思った。それらは重力がふっと途絶えてしまったなら、宇宙に放たれてしまうのだろう。いつか家の前で手放してしまった赤い風船のように、ふわりふわりと上空へ上り続けるのだろう。

青は遠くの色で緑は近くの色。そんなことを思うようになったのは最近だ。
ずっと、青と緑はどちらも自然の色だと思って並べてきた。空と水は青で、木と草は緑で、それらは響き合う二つの色なのだと。あの頃住んでいたのが日本で、そこでは太陽の光が少しだけ黄色を帯びているからかもしれない。
そしてドイツでは少しだけ紫に近いことさえある。

嘘だと思う人もいるかもしれないけれど、日光の色は地域によって微妙に違う。
ずっと前に画集で見たターナーやコンスタブルの風景画は、写真のせいであんな色をしているのだと思っていた。美術館で見た時は、古い絵だからあんな色をしているのだと思っていた。それが実際目の前に広がり得る色彩だと知ったのは十幾年も前、ノイスから家に向かう途中だった。電車がライン川の広い河川敷を渡る。夏のある日、その緑地は日暮れの光を受けて、さながらコンスタブルであった。
(コンスタブルはドイツではなくてイギリス人だけど。)

微妙な色の差は色鉛筆にも表れている。例えばトンボの青はファーバーカステルの青より少しだけ緑寄り。
実はその色は私の急所のひとつだ。心が痛むほどの青。だから私は日本で買った色鉛筆を引き出しの奥の方にしまうことにしている。







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