見出し画像

学歴を理由にすると、思考が停止する。

先日このような記事を読みました。

「東大に行ったのに普通の人生」な人たちの苦悩。
https://blog.tinect.jp/?p=67459

記事の中では下記のようなことが語られている。

親としてしばしば口にするのが「勉強をしておけば、選択肢や可能性が広がるから」という言葉なんですよね。
≪中略≫
「東大まで出たのに……」が逆に選択肢を狭めることがある。

私もけっこう身に覚えのある話が多いし、まさに今問題意識を抱えているところです。

「学歴」は日常に住む問題

私は(高学歴と言えるか微妙だが)地元では結構勉強を頑張って、地方の国立大を出ています。
家族親戚も「選択肢が広がる」と本当に皆言っていましたし、北大に行った友達を見て「北大受かるんだからやっぱり能力高いよなー」って、何の悪気もなく素直に思っていました。

でもなんとなく、この記事に書いてある「勉強をした人」に縛られているの、わかるんです。
いざ就活が始まれば、ネームバリューのある企業や出世がのぞまれる総合職に就かなくてはいけない緊張感。周りの人と比べて、新卒の月給が低いときの不安感や、どうしても残る変なプライド。
自分も、周りも、勉強した相応の対価を求めるんだなと、大学3年生の時に痛いほど実感しています。

今は企業で採用をする身になって、まさに「縛られている」応募者・「縛られている」面接官と対峙しています。
私の職場は完全に学歴不問で、どちらかというと世間的に言われる高学歴な人はそこまでいません。

高学歴は、スキルがもたらした結果である。

ここまで学歴批判みたいなことをつらつら書いてしまったが、高学歴であることはどう考えても悪いことにはなりえない。

知識・教養やそれを得る術も知っている場合が多い。
ポテンシャルだけ見ても、生まれながらに記憶力・集中力・創造力の高い人はいるし、そうでない人は並々ならぬ努力をしているし、同じ努力量でも高い目標を達成できる計画性や効率の良さ。賛否両論あるが、上記のようなスキルを多かれ少なかれ持っていなければ、高学歴は実現しないような気がします。

私は「東大王」や「QuizKnock」などの知識系コンテンツを愛してやまないのですが、あれは出演者の方々の学歴+相応の知識とアウトプットするスキルがあるから成り立っています。仮に無名な大学を出た人がやっていても、掲げているコンセプトに対する信頼性や面白味には多少欠けてしまうでしょう。

学歴とはスキルがもたらした結果だと私は思います。そこで勉学や研究を行いさまざまな文化にふれることが、新たな道を開くのでしょう。

学歴を「理由」にすると、思考が停止する

学歴により仕事に対する期待やイメージを持つことは自由ですが、それを合否・配属・評価に持ち込まないことには細心の注意を払って、人事の仕事を行っています。

・書類や面接で少し違和感は覚えたけど高学歴だし仕事はできるよね
・あの人は学歴もいいし難しい仕事もできるよ
など学歴を「理由」にしてしまうのは、判断する側の一種の逃げや思考停止になりえると、危機をもっています。

本来であれば、仕事のパフォーマンスを出せる評価基準を組織の目標や現状に対して知恵を絞って言語化するべきところを、学歴は時として邪魔してしまうんだと思います。

採用の場でも「〇〇大にまで行ったのに、ウチの会社受けるの?」とか聞く面接官がいるというアンケート結果を見たことがあります。まあ確かにいるか。
高学歴の人に対する決めつけや無理な仕事を与えたり叱責するのもハラスメントに入る時代です。

学歴が高い「から●●である」「けど●●できない」ではないのです。

本日は以上です。

学歴の高さの裏にあるパーソナリティや努力を理解し認めた上で、その時その瞬間の人と対峙しながら、日々の面談を続けていきたいものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?