パンを床に叩きつけたおじさんの話
場が一瞬にして凍りついた。そこにいる全員の呼吸が一瞬止まる。パンのおじさんはそこにいる。
パンのおじさんの話をしよう。
ある日のこと。そのおじさんは片手に透明なビニール袋に入ったパンを持って私の職場に現れた。それ以外に荷物らしきものは持っていない、そのパンはコンビニや普通のパン屋にはないような、丸いドーム型の大きなパンだった。
おじさんは商品を見たり手に取ったりすることなく、お店の中を一周して、真ん中辺りで立ち止まった。そして次の瞬間、おじさんは持っているパンを袋ごと凄まじい勢いで床に叩きつけた。
本当に文字通り、パァン!というどこまでも届きそうな真っ直ぐな音がした。
店内には他にお客様はおらず、3〜4人スタッフがいたのだが、全員体が硬直し、その場から動けなくなった。時が止まったようだった。いや実際ちょっと止まった気がする。
予想外のことが起きた時、人は何も考えられなくなる。
だって、何をどうしていいか分からない。そのパァンの後、どう行動するのが正解なのか。威力的にはもはやテロである。パンテロ。しかしその静寂は長くは続かなかった。
おじさんは床に叩きつけたパンを拾い、もう一度同じようにパァン!と叩きつけた。そしてまた拾い、パァン!合計3回。その間も、現場にいた我々はだただ立ったままそのおじさんを見ているしかなかった。
みんな恐怖を感じているのが分かった。どうやら自分に危害が加えられることはなさそうな気がするが、理由のわからないものに対する恐怖。そして次に自分がどのような行動を取ればよいのか分からないどうにもできない気持ちを抱えて困惑していた。
するとおじさんはその空気をまた動かした。
おじさんは落ちているパンを拾うとそのまま店の出入り口まで歩いて、一歩外に出たところでくるっと振り返ってこう言った。
Super Cool!
そして颯爽と去って行った。
最後の捨て台詞に、恐怖は感じなかった(めちゃめちゃ英語の発音が良かった)。おじさんは戦隊ヒーローが決め台詞を言う時のように足を肩幅に広げて、堂々としていた。おじさんがどこを見ていたのか分からない。きっとどこかを見ていたんだと思う。
おじさんの気配が完全に消えた後、スタッフ同士で慰めあった。怖かったね。うん怖かった。どうしようかと思ったよ。
しかしどんなに慰め合っても、結局あれは何だったのか、それは誰にも分からないままだ。ただ言えることは、おじさんの行動、言動に一切躊躇というものは感じられなかったし、同時に意図も感じることはなかった。ただそうしたいからそうした、それだけのように私には見えた。
その後、お昼を買いに外出していたスタッフが返ってくるなり興奮気味に教えてくれた。
聞いて!さっきのおじさん、歩道に座ってあのパン食べてた!!
…別に何にもオチていない。謎は謎のまま。そうなんだけど、私達は笑った。おじさんがあの行動の後に、歩道でパンを食べていてくれたことになぜか救われていた。おじさんは間違いなく私達の心に大きな爪痕を残していったのだった。
この体験談は、何年かに一度思い出されてみんなで話題にして懷かしんでいる。きっとこの先もずっとそうなのだと思う。
こういうおじさんがいたんだよってこと。