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暗闇の水

あれが夢だったのかわからない。
暗闇の中で目が覚めたと思ったが、目覚めてなどいなかったようだ。
夢の中なのか、現実なのか、確かめようと起き上がるが、途端に得体の知れない感覚が身体を走り抜けた。
まるで水の中に沈み込むかのように、何かの中に入り込む。身体の奥深くで溶けてしまったかのような不思議な感覚だった。
私は今、水のような身体をしている。

それは暗闇なのに、そう思えないほど透き通っている。手で触れたわけではないのに、暗闇以外なにも見えないのに、全てに触れているかのよう。この水のような感触を私はよく知っている。

例えばこれを「暗闇の水」と名付けよう。
私は暗闇の水に深く沈んでいるのに、目が覚めたばかりのように世界は明るく、小鳥を抱いているように何時までもあたたかい。
深海に灯る火のように、ありえないはずのあたたかさがずっと続いていた。
暗闇の奥には何があるのか、私の興味はその先にあった。

暗闇は深く、透き通っていて、私はどこにでも入り込めたが、一歩も動かずそれを見つけた。私に覆いかぶさるように、何かが呼吸していた。
それは透明で大きな心臓のように音を立て、深い振動がどんどん私をあたたかくする。この身体よりもずっと大きな心臓が、巨大な柔らかい卵が、こんなにも小さな私を包み込んでいたのだ。ずっと重なって、初めからそこに在った事に、私は一度も気がつかなかった。
私の心臓の裏側で、この大きな心臓が動いている。

暗闇の水は、一体どこに繋がっているのかまるで分らない、先の見えない洞窟でありながら、何もかもに満たされている。
この暗闇が私自身であることを、何時からか忘れてしまっていたのだろう。
思い出すと同時に、私の中に光が落ちてきて、はっとした。
私は暗闇だと思っていたのに、どんどん光が入り込んでくる。移り変わる走馬灯のような記憶が再生され始めていた。
鮮やかな星たちが次々と姿を変えていく様子が、目の前に広がっていくのだ。決して知ることのなかった光が、瞬きをするたびに星が生まれるみたいに、幾つも通り過ぎていく。
何もかも見たことが無いものばかりだ。

こんなにも沢山の光を映し出しているのは、あの透明な心臓なのだという事はすぐに分かった。私はあの心臓に包まれ、柔らかな熱の中に落ちていたようだ。あのあたたかさや、例えようのない水の炎の中で、私は泳いでいる。

急に割り込んできたあの鮮やかな層の星が爆発するまでの間、私の身体すべてを通して幾つもの光の線が彼方に過ぎ去っていくのを知った。
たった一瞬のその光について、私はいつまでも忘れることがない。光を包み込むように、どこまでも大きく広がっていく。
私は暗闇の中を彷徨う水なのだ。

小さかったはずの私が、こんなにも大きく広がっていくのを一体誰が信じるだろう。暗闇だった私の中に、いつの間にか光の身体が沢山できていくのを、果てしない希望の光が輝いているのを感じながら、いつまでも泳いでいる。音楽が最高に盛り上がる瞬間だけを切り取って永遠に張り付けたみたいに、全ての光が私の心と深くつながり、どこにも消えることがないのを確信していた。

光が波のようにやってきて、私が泳いでいるのか、光が泳いでいるのか、もうよくわからなかった。
私は暗闇なのか、光なのか、そのどちらでもあるかのように移り変わっていく。だから、あの柔らかな、暗闇の水であることも忘れてしまいそうだった。

水面のようにじっとしながら、次に何がやってくるのか待っていた。
目の前には鮮やかで巨大な星が現れたが、一体どうしてこれほど近づいているのかわからない。
それは突然、現れたように思えた。
この星がどのように生まれたのか、私は何も知らない。
何も知らなかったはずなのに、記憶はとぎれとぎれ繋がっているようだった。

次第に、あの星が兄弟であることを思い出してしまった。
どんな記憶も、私の中にずっと存在している。
私たちはこの暗闇と光の間で産まれたのだ。

初めは二色に輝いていたその星は、次第に沢山の色の煙になり徐々に形に成ったが、近づいていくと蔦のようなものが絡み合っているように見えた。
沢山の色が絡み合い、燃えている。
私達はこの蔦を通して結びついているようで、そうである限り、私はそこに近づく事が出来た。
衝突は避けられない程すぐそこにあったが、気が付くとお互いを通過して、また姿を変えていた。
兄弟の名前は知らないが、私たちは燃えたり、溶けたりしながら、お互いを知っていた。
何度も姿を変えた後、私たちが結びつく蔦はもう切れてしまいそうだった。
どうしてこんなに遠くなったのか、それは信じがたい事だったが、私たちは回り続けていた。

あんなに見えていた沢山の光が小さくなっていくのを知って、私はまたそこに近づきたいと思った。だが、身体は同じリズムで踊り続ける事しか出来なくなっていた。
私たちは兄弟で、生まれた場所は同じなのだから、何時だってもっと近づく事が出来ると思っていたのに、それが出来なかった。
何度も姿を変えることが出来るのだと思いたかった。
それで、私はまた近づく事ばかり考えた。そうして身体を捻ると、突如、閃きそれ自身のように飛び出してしまった。

身体は急に軽くなり、風船のように揺らいでいた。
そこにはもう、あの水のような感触はなかった。
私たちを結んでいた蔦は切れてしまったようだった。
近づこうと目を凝らすと、あの星は私から離れていくように遠くなり、どんどん輝いて見えた。
私は暗く、あの星は沢山の色で満たされている。
お互いを映し出すように、私たちは回り合っていたのに、もうダンスはしない。
光の蔦はどこかに浮かび上がったかのように見えなくなった。
私たちはいつだってお互いを通過し、忘れては思い出し、兄弟のように繋がっているはずなのに、今はこんなに小さく、私の裏側にいるのを感じている。
あの巨大な心臓は、今では私の胸にすっぽり収まる程小さい。
暗闇の水を出てから、私は暗く、もう溶けることはなくなった。
あの星は遠くで、沢山の色で満たされながら光っている。
私の裏側で、静かに燃えている。