2月29日

非常に書きづらい。しかし書かなければという夢を見た。

私の「自分好き」はFacebookやInstagramをご覧になった方は周知のことと思う。自撮りの角度や表情から伝わるんじゃないか。そもそもこんなことを書いている時点で自分のことが好きだと伝わってしまっていると思う。

同じくらい他人が好きだ。顔と名前が一致していて、声を知っていて、表情のバリエーションを何パターンも知っていて、会話をしたことがあって、歴史や考えを多少なりとも共有できていて、口癖も知っているし気になる仕草も把握していて、その人がどんな未来を見ているかどんな責任を負っているかを共有できているような他人が好きだ。

自分がCOVID-19に感染しているかもしれない可能性を持ったまま、尊い他人と会うのが辛い。墨田区で活動している人たちや友人は他人以上の存在だからなおのことだ。そんなわけだから普段以上に手洗いうがいは徹底するし、人ごみを避けて通勤する。そもそも私は朝5時前後には起床していて8時前には出社する年寄りなので人ごみとは無縁の存在だけれども、それでも、だ。

詳しいことは書けないが、私の生活圏内に高い確率で感染を疑われる人がいた。

今までは「人ごみを何度も通っているから私も感染してるかもねえ」「流行する前にすでに感染していた可能性があるとかTwitterで見たから、私もすでにかかっていて治っているかもしれないや」「重症化はしないでしょ、たぶん」と軽く受け止めていたCOVID-19が急に近くにやってきた。感染しているかもしれないことが現実となった。

自分が加害者になるかもしれないのだ。

尊い他人・・・という表現を先の文章にならって書いているけれども気持ちの上では大切な人や友人知人墨田区の皆・・・と会えない。会いたい人はたくさんいるし見たい展示や映画もたくさんある。でも会うとうつしてしまうかもしれない。そんな恐怖と責任が一気に押し寄せてきた。同時に孤独が襲ってきた。誰にも言えない。言うと村八分にあうかもしれない。SNS上では建前の気遣いをしてくれても実際は避けるだろう、自分だってそうしないとは限らない。子どもがいる人ならなおさらだ。確実に感染してないということはできるのだろうか。医療機関にいこうか、発症していないのに行っても検査してくれるとは限らない。そもそも現段階で医療機関にいって実は感染していなかったのに感染してしまったら被害を拡大させてしまうかもしれない。動けない。コンビニ…くらいは許してもらえるよね、あ、でも知っている店員がいるから今日はやめておこう。体温を測る、大丈夫。ああなんて恐怖なんだろう。今回は感染していなかったとわかったとしても、いつどこで同じような接触をしてしまうかわからない。どこにも行けない。テレワークだけど会社に行かないといけない用事があるからビクビクしながら出社しないといけない。感染するかもしれない恐怖よりも感染させるかもしれない恐怖はあまりにもリアルじゃないか。加害者としての意識が内側から針でつついてくる。SNS上で繰り広げられる情報拡散の泥水は自分の加害者意識を強化する以外の機能を持たないから見たくない。拡散している人たちは加害者になるかもしれない意識を持たないのだろうか。楽しいはずのイベントがどんどんキャンセルされるのは見ていてしんどいが、行われていたとしてもどうせ自分は行けないから、どんどん他人事化していく。周りの情報が少なくなり解像度が荒くなり明度が下がり無に近くなる。手をのばすことが怖い。そうやって孤独の壺の中で発酵して毒酒にでもなって男塾の民明書房とかに登場する存在になってしまう。(とか考えられている時点でまだ余裕はあると思いますが)

一通り落ち込んでから、気にすべきは治療法だなという結論にいたった。「感染列島」でも「それはどこからきたのか/それは何をするのか/それは一体何なのか/どうやって殺すか」という4段階を説明していた。COVID-19の治療法があれば壺に穴が開くだろう、そう思ってシャワーを浴びた。

「感染列島」の後半、廃墟となった町並みでは感染者を見つけては捕獲し隔離する自衛隊のような組織が車を走らせていた。妻夫木くん演じる医者が恋人未満の医者と廃墟を歩いていると組織の車がとある家から男性を引きずり出していた。どうやら感染者らしい。恋人のような女性が「いかないで!」と叫んでいた。引き裂かれるのが怖くて潜んでいたんだろうか、目から血を流し(「感染列島」での感染症は致死率40%とかなりやばい病気だった)死の危険に直面しているのにも関わらず、感染を表明せず孤独を恐れて隠れていた。

このシーンから現状を想像するのは極端かもしれないけど。いてもたってもいられなくなって、数字や文字に現れてこないかもしれない感情を日記として記してみた。

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