人口構成
イジメのメドレーリレー〜お前はこれからも違う人と出会って同じように嫌われるんや!
#1. 3. 人口構成
ちょっと本編に入る前に…。
これからさつき寮の様子を書いていきますが、こんなことを思いつきました。
令和の時代にさつき寮は運営できるのか、と。
結論はいうまでもなく、否である、と。それは
地理的
文明的
に成り立たないからです。まずは前者の地理的に不可能なのは、淡路島が本州および四国につながった地続きの構造になっており、明石海峡大橋がなかった当時と比べてアクセスが劇的に変わりました。当時の淡路島には大鳴門橋がすでにありましたが、本州とつながってなかった分遠い存在でした。
本州と淡路島が明石海峡大橋でつながって四半世紀。あの当時の遠いイメージはもはや過去のものになりました。当時は船での移動だったので、距離だけでなく、心理的にもハードルがあったのです。
自分が社会人になって仕事で淡路島経由で四国に行くことがありましたが、あっという間に移動できたことにあっけにとられたことがありました。又淡路島からバスを利用したこともありましたが、夕方ラッシュだったこともあり、満員でした。淡路島はもはや通勤圏内といってもいいでしょう。
学校のサイトにもありましたが、現在は本州から通学する生徒さんに対して定期券代の一部負担してるところからも、寮運営を再び行う見込みはないとみています。
さつき寮が寮として成立できたのは、淡路島が孤島であった当時だからこそ、といえるでしょう。
次に後者である文明的に不可能なことについてです。
当時、パソコンやスマホはおろか、携帯電話すらありませんでした。連絡手段といえば公衆電話か手紙のみ。電話はコレクトコールでかけ、手紙は一字一句丁寧に読んでいたあの当時を、自分は懐かしく感じます。
ITインフラが身近になった現代、あの当時のインフラに戻ることは不可能です。寮生活においてスマホ没収は現実的ではありません。
そもそも寮生活は必要なのか。
スマホのSNSで家族どうしでいつでもやり取りができるのであれば、わざわざ寮生活するインセンティブすらありません。なぜ余計な費用を払ってまでして寮生活するのか、と。
したがって通勤圏内でかついつでも家族とつながる現代において、寮生活はもはや過去のものとなりました。さつき寮が成り立っていたのは、地理的にも文明的にもハードルがあったからこそ、といえます。
当時の自分が寮生活に変な妄想を描き、それが机上の空論だとわかるのは、この2年後でした。そしてそれが取り返しのつかない過ちだと気づいたのです。という訳で、
それでは、本編へどうぞ。
・・・
さつき寮での生活は如何に。
その良し悪しを決めるさつき寮の居心地は、上級生とパシリの比率で決まる。
自分はさつき寮8期生として入寮しました。上には6期生と7期生がいました。
寮生活といえば、もはやお約束といってもいい位のタテ社会。絶対的な上下関係があり、先輩の命令には絶対服従。上級生がパシリを使う、という構図もお約束。先輩に敬語を使うのも既定路線。この辺につきましては、多くを語る必要はないと思います。
タテ社会は年功序列なので、上級生になれば天下をおさめることになります。2年間滅私奉公すれば、その努力は報われる、と。これを努力といっていいのかは微妙ですが…。
さつき寮で過ごした2年間は、1年生の時と2年生の時とでは様相が大きく異なります。タテ社会の構造はそのままに、同じ建物で同じ人と暮らしているのに、生活環境が大きく変わったのです。したがって寮生活が間違っている、と短絡的な判断は下せないのです。
1年目はうまくいったのに、2年目で破綻した、と。
自分は先ほどそのように申し上げました。当時それが謎で、なぜそうなったのか良くわかりませんでした。そんな中自分がたまたま人口ピラミッドをみた時、コレだ、と確信した訳です。
上級生が後期高齢者で、パシリを生産労働者とみるとうまくハマったのです。男子のみですので、ピラミッドは片方向になりますが、高度成長期社会と少子高齢社会で生活環境が大きく変わるのと同じです。さつき寮の寮生活を通じて、自分はこの2年間で両者を体験した訳です。
さつき寮はニッポンの縮図。
そのカギとなるのが人口比率。寮生活がうまくいくかは、各期生(学年)の人口比率次第となります。上級生<パシリならラクですが、上級生>パシリだと苦しくなります。そして自分は1年生の時前者を、2年生の時に後者を体験したのです。
それではさつき寮の人口構成について、具体的にみていきます。
上級生<パシリ
自身がさつき寮に入寮した1985年は、まさにこの図式でした。人口ピラミッドでいえば釣鐘型で、高度成長期と似ています。この時のさつき寮の人口構成は、
3年生(6期生)11人
2年生(7期生)30人
1年生(8期生)23人
でした。8期生が途中8人抜けて15人になりましたが、2年生と合わせると45人になります。上級生の比率は全体の約20%で、ひとりの上級生を、4人のパシリが面倒をみる計算になります。
実際は4人部屋なので、パシリの数は3人でしたが、基本は同じです。それぞれが役割分担を決めて効率よく作業を行いました。ひとりは洗濯を行い、ひとりはマッサージを行い、ひとりはラーメンを作ったり、といった具合です。
ひとりあたりの作業量が少なく、自分の身の回りのことをやるついでにできたので、パシリといえど、それほど苦痛を感じませんでした。全体的に余裕があるからか、部屋の雰囲気はずいぶん和やかでした。
部屋によっては上級生がいないので、そういった部屋はほとんど自由でした。部屋替えは各学期毎に行われますが、2学期は2年生と自分の二人だけで上級生はいませんでした。すると2年生が1年生をパシリとして使うことになりますが、あまり無茶な要求をしませんでした。やはり気持ちに余裕があったからでしょう。
この年は全てがうまくいきました。寮生活では先輩から可愛がられ、クラブの練習も順調、学業もキチンとできてたし、クラスメイトとの関係も良好でした。まさに淡路島に来て良かった、と。
まさに順風満帆なスタートを切ったのです。後に重大な結果となり、自身の人生が大きく狂ってしまうことを、この時点では全く気付く余地はなかったのです。
一方人口構成において
上級生>パシリ
自身が2年生になった時の図式になります。寮生の人口構成における人口ピラミッドが逆三角形型で少子高齢社会の構造と似ています。自分はさつき寮で現代を擬似体験した訳です。
2年目の1986年は、7期生がそのまま上級生としてスライドする一方で、新入生はわずか11人。上級生の人口の比率が全体の約6割を超えました。
この時の人口構成は、
3年生(7期生)30人
2年生(8期生)15人
1年生(9期生)11人
となるので、パシリとしての仕事量が激増します。
11人いた9期生が途中9人抜けて2人になったので、2年生と合わせると17人になります。上級生の比率は全体の⅔にあたる約63%で、2人の上級生を、1人のパシリが面倒みる計算になります。1985年に4人のパシリが1人の上級生の面倒をみていたのと比較すると、単純計算で約8倍の仕事量になります。
現実は8倍の仕事量にはなりませんでした。なぜならパシリが一日にできる仕事量が決まってるからです。生産性は上げられない、と。
まず作業時間の短縮はできません。洗濯にせよ、ラーメンの調理にせよ、マッサージにせよ、これら全てそれ相応の時間がかかります。又洗濯機が全部埋まっていれば、順番待ちで更なる時間のロスが発生します。
現実問題として、全ての上級生の面倒をみるのは、物理的にも時間的にも不可能なのです。そこで上級生に該当する7期生の間で、パシリの争奪戦がはじまります。この争奪戦の結果、
パシリを確保できた勝ち組
パシリを確保できなかった負け組
に別れました。比率は半々位でしょうか。つまり上級生の間にも、上下関係とは異なった格差つまりヒエラルキーが生じたのです。
仮に上級生の勝ち組と負け組の比率が半々だとすれば、勝ち組だけなら全体の約3割になりますが、負け組はパシリにはならないので、パシリは全体の約3割程度になります。すなわちパシリ1人が上級生1人の面倒をみる結果となり、仕事量が1985年の約4倍になるのです。
いずれにせよ、パシリの労働環境は大幅に悪化します。少なくとも、1年生の時のようなついでにできるような仕事量ではありません。いわゆる人手不足に陥る訳ですが、残されたパシリだけでやりくりするしかありません。仮に9期生がもう少し残っていたとしても焼け石に水で、劣悪な環境に変わりません。
当然ながらさつき寮の雰囲気は1985年の時とは一転。全体的にぎくしゃくします。タテ社会のバランスが崩れ、その結果、破綻したのです。タテ社会がうまく機能するには、上級生の比率が全体の3割が限度で、パシリの比率も最低6割(約70 名)は必要です。
問題の本質でない人口比率。
確かにさつき寮は人口比率によって生活環境が左右されたのは事実です。上級生の数とパシリの作業量との間に相関関係があり、それによってパシリへの負担が変化するのも又事実です。しかしそれは本質的ではありません。
そもそもさつき寮の寮生のほとんどが自ら志願して入学してきた訳ではありません。彼らは親御さんに見捨てられた存在。元々すさんだ感情をもって、さつき寮に入寮させられているのです。タテ社会や理不尽なシゴキは必然といえます。
仮に何らかの目標をもってさつき寮に入寮していれば、こんなことにはならないはずです。ましてや地元の方々とうまくいかないなんてありえないのです。その地域でお世話になる訳ですから、地元の方々を排他的に扱うのは失礼にあたります。
自分は自ら志願して柳学園のさつき寮に入寮しているので、タテ社会やシゴキには全く関心はありませんでした。上級生になったからといって、パシリを使うという発想すらないのです。むしろ自分のことを他人にさせる神経が理解できません。
この志望動機の違いが、寮生と自分との間に大きな溝ができ、最終的にはさつき寮はもちろんのこと、柳学園そのものも退学させられるのです。
進路を脅かす高い退寮率。
最後にさつき寮の寮生の退寮率について書きます。
自分のひとつ上に該当する7期生は50人いたと聞いていて、最終的に30人になりました。ちなみに自身の8期生は、23人入寮して最終的には14人になりました。そして9期生は入寮の段階でわずか11人で、残ったのは2人とほぼ全滅です。
それを踏まえてみていくと、寮生の退寮率は7期生と8期生は約4割で、9期生に至っては約8割でした。つまり退寮者は毎年一定数の割合で発生するのです。この高い退寮率を、学校側はどう捉えていたのでしょうか。
教育機関としては、あるまじき出来事です。もちろん当時の副理事長も、少しでも改善しようと、当時1年生だった8期生を、別の建物に隔離させたこともありました。しかしそれが本質的な問題解決には至りませんでした。
この高い退寮率は、学校にとって不名誉なことです。長期的にみて、それが悪い噂となって広がり、誰もこなくなるのです。現に9期生は11人しかきていないのです。そして残ったのは、たったの2人。それはたまたまではなく、必然だったのです。これで維持しろという方に無理があるのです。
学校側は退寮率を下げるために何をすべきかは、見出せなかったようです。それ以前に、この寮運営を維持するために何をすべきかも理解できなかったようです。
現在さつき寮に寮生がいないのは必然といえます。
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