精神鑑定の結果、両親が”毒親”であることが原因だった
うつ病になってから約6ヶ月経ちました。おかげさまで、初投稿のnoteは想像以上に色々な方に読んでいただけました。親友ほど読んで泣いちゃったっていってもらえて、こんな私の弱さを受け止めてくれる人がいることに感謝の気持ちでいっぱいです。今回は、精神鑑定の結果が出たのでまとめてみました。
精神鑑定(心理テスト)の結果
双極性障害の可能性もあったので、精神鑑定を受けることになりました。鑑定は2日間ほどかけて行われました。4種類以上のテストを受け、鬱の原因や現状を正式に言われたので、その内容についてまとめようと思います。絵を10枚程度見せられ、何に見えるか答えたり、・や◯に自分で描き足して絵を完成させたり、これから何がわかるのかさっぱりわかりませんでしたが、2週間程度で結果が出ました。結論、双極性障害ではなく、うつ病でした。
担当してくださった先生から、「こんなに心がぐちゃぐちゃになっているのは他の患者さんでもあまり見たことがない」と言われ、そんなこと言われても困るよって感じでした。「よくここまで無事に生きることが出来たね」ということらしいです。詳細な説明があったのですが、忘れてしまったことも多いので、覚えている大きな原因について記します。
端的に述べると、両親の影響がかなり大きいことがわかりました。前回のnoteではほとんど両親について綴っていなかったのでこの機会にまとめてみます。
両親が与えた影響
今から両親に対してネガテイブな発言をします。でも、ここまで金銭的な援助を含め教育をしてくれたことには感謝しています。
私は、自分の親のことをいわゆる”毒親”だ(だった)と思っています。でも、SNSを見ると私より遥かに”毒親”に苦しめられている方を目にします。ということで、あくまで例として、自分の親はこんな感じだったから鬱になってしまったよーというテンションで書きますのでご了承ください。”毒親”と戦っている方の参考になりますと幸いです。
私は、両親共に”毒親”だと思っている(いた)ので、母と父それぞれについて書いてみます。負の感情が邪魔してお見苦しい文章になってしまうかもしれませんが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
母について
家が安心できる場所ではない苦しみ
私が母に最も苦しめられたのは、私が大学生の頃です。家に帰ると玄関に入った瞬間、靴の置く場所から就寝の仕方まであらゆる一挙一動に対して怒られました。行動というのは、自分で判断して実行したことです。その判断全てを否定されるので、自分という存在そのものの価値がわからなくなることが多々ありました。「なんでそんなバカなの?障がい者なんじゃない?」と言われたこともあります。(流石に障がい者の方に失礼です。)
家にいると、文句を言われる時間が大半を占めるので、なるべく家に滞在する時間を減らしていました。友達との外出が終電より前に解散したら、電車を意味もなく行き来し、終電まで時間を潰していました。遠すぎて降りたこともない知らない駅のホームに着いてはベンチでぼーっとして無意味な時間を過ごし、終電の時間が近づいたら反対側のホームに行って電車に乗るという感じです。(元の駅に戻ったとしても本当は行った駅まで運賃を支払わなければいけないらしいのですが、その時は知らなかったです、すみませんでした。)とにかく家にいる時間を減らしたくて、家族と接する時間を減らしたくて、寝に帰る以外のことを極力しないようにしていました。
LINEで罵倒される毎日
しかし、家にいる時間を減らしても、必殺奥義「LINE攻撃」があるので、友達といくら楽しく話していても、怒り狂ったメッセージにより気分は最悪です。想像してみてください、毎時間のようにこのようなメッセージが来る毎日を。
確かに私に非があることもたくさんありますが、ここまでぶちギレるほどのことか?と未だに思ってしまいますね😓どんなに家から離れても、どんなに逃げても母の怒鳴り声が脳裏から離れませんでした。テキストの威力はやはりすごいですね。誹謗中傷が人の命を消してしまうのも納得します。この時から自傷行為をするようになっていました。リスカではなくて、鉛筆とかペンを手のひらにブスブス刺していました。(いま思えば特殊な自傷ですね)跡になるほど強く痛めつける勇気がなかったので、今は跡がなくなっています。
裁判の傍聴に連れていかれる
最も印象に残っている出来事は、裁判所の傍聴に連れて行かれたことです。LINEを見ていただければ分かる通り、仲は最悪だったので、必要最低限接するのでやっとだったのですが、なぜか裁判の傍聴をしろと言われ、薬物の所有や使用で取り締られた人の裁判を傍聴しました。あなたもこんな犯罪者のようにはならないでよ。と釘を刺されたのです。
モスバーガーで話し合ったあの日
母から何度も言われた言葉が責任と自由です。家の中で話すと殴り合いが始まるので、近所のモスバーガーで1時間という約束で母と話し合いをした記憶があります。紙に「責任」と「自由」と書かれ、責任を持って行動ができてから自由が与えられるんだと何度も言われました。その時の私には、何が責任なのかよくわからなかったし、責任はある程度持っているつもりでした。ここで既にすれ違っていたと思います。
父について
喋り声より怒鳴り声の方が多い
母よりも父の方が人間性に問題があると大人になっても思います。常に歯を食いしばってこめかみが動き続けており、眉を吊り上げて怖い顔をしています。(全く誇張していません。NOT ザコシショウ)
私が物心ついたかついてないか微妙なラインの頃、部屋に飾ってあったクリスマスツリーに触れた瞬間に激怒されました。飾りが崩されることを恐れて怒鳴りつけられたのです。
物を下に落としたら、怪我をしていないか人よりも傷ついてないか床を心配します。
忘れもしない幼稚園の頃には、食事中に食器を少しぶつけて音を立てただけで、なぜか怒鳴りつけられ、そのたびに涙が出てきて苦しかったです。家族で一緒に食べる食事は緊張して味なんてしませんでした。
煽り運転常習者
今は「煽り運転」という言葉が出来て、下手なことをするとSNSに晒されたり、警察に捕まったりします。しかし、私が幼稚園の頃はそんな言葉はなかったので、父はゴリゴリに「煽り運転」をしていました。
例えば、気に食わない相手がいたら、横ギリギリまで詰めて窓を開けて睨みつけ合いをしたり、(その時母に見ちゃダメ!と私と妹の顔を隠された記憶があります。逆恨みされて殺されたりしたら困るからでしょうか?)追い越して急停車して相手を困らせたりしていました。よくニュースで見る煽り運転ですね。
昨年、免許更新に行った際、講習の中で「煽り運転」の事例として急停車するやつが出てきた時、つくづく父は感情のコントロールが下手な人間だと思いました。
ヒステリックになって不思議な行動をとる
コロナの時期に、なぜか父の都合で10日間家に立ち入ることが禁止されました。なんで父が部分的に出社が始まって感染リスクが高まるのに、その父に合わせて家に立ち入ることを許してもらえないのかよくわからなかったです。普通に家出しました。
とうとう家出する
ここまで散々母と父のことについて話してきましたが、耐えられるわけもなく、5回ほど家出をしています。この間、私を家に泊めてくれた親友、元カレ、祖父母や叔父には本当に感謝しても仕切れません。精神が崩壊し、耐えきれない時は、荷物を大急ぎでまとめて家を飛び出しました。それでも母は追いかけてくるので、靴が脱げても、拾う間もなく全速力で走り続けたこともあります。
でも、家出をしたことは一歳後悔していません。家出の3回目以降は、マンスリーマンションを借りて、自分一人で家事をこなし、問題なく生活を送ることができていました。
母が言う「責任」が何かわからなかったですが、「自由」を手に入れたら案外自分一人で生活する力を持っているということがわかりました。
母は責任を果たしてから自由が与えられると言っていましたが、自由を手に入れてから責任がついてくるという考え方でも良いのではないかなと今は思っています。
まとめ
このように過保護すぎる母と怒り狂う父の元に生まれた私は、自己肯定感がことごとく下がったり、自分の守り方が分からなかったりすることが多く、うつ病になったのだと思います。先生がどういうつもりで両親の影響が強いと言っていたのかはわからないのですが、多分そう言うことだと思います。
ここまで読んでいただいて、私の親を”毒親”だと思った方、思わなかった方それぞれいると思いますが、いずれにしても親と一緒にいるのがしんどいと感じている方は、勇気を出して距離を置くのが一番だと思います。ここでいう距離とは、物理的な距離と心理的な距離の両方です。
家出を推奨しているわけではないのですが、安全な場所が確保されているのであれば、友達や親戚に甘えてもいいと思います。(#家出少女みたいなのはやめてください。犯罪に巻き込まれて危険です。)家族だから近くにいなければならないなんていう常識にとらわれる必要はないです!「自分にとってマイナスになるものは全て排除していい」とアレン様も言っていました。
今は母のことは大好きです。距離を置いてからだいぶ関係性が良くなりました。私のことを大切に考えすぎた結果、過去の言動があったと考えるようにしています。私もある程度大人になり、母も一人の人間だと思えるようになってから尚、今までされたことを許せるようになりました。
父は、相変わらず実家では怒鳴ってばかりですが、そういう人間なのだと割り切っています。父の機嫌を取ってどこまで怒らせずに済むかゲーム感覚で接すると気が楽です。
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