短編まとめ「無賃乗車」「喋りだす夜」
無賃乗車
日差しが色濃くなってきたある日、私のもとに祖父の訃報が届いた。
父の地元は山々に囲まれた九州のとある田舎町だ。幼いころは父の帰省に連れ立ち、集まったいとこ達と共に盆と正月を迎えたものだが、私たちの生活が変わるにつれ足が遠のいてしまっていた。
今回葬儀に参列する為、あれから数十年ぶりに降り立つ。何も変わらない景色の中で、私の姿形だけが変わっている。ここに来る為に乗ってきた飛行機が実は時間を遡るタイムマシンで、まるで過去へ戻ってきたような心地になった。
余裕を持って出発したのだが、飛行機が大幅に遅延し到着が遅れてしまった。既に式が始まっている為、地域のタクシーに飛び乗り式場へ向かう。
「何処から来たの、葬式なんかあ、じゃああそこの会館だねえ」と瞬時に理解してくれる土地の言葉が似合い、柔らかな白い髪を蓄えたベテランドライバーの運転に揺られている。
さて、私の東京での生活はデジタルにどっぷり、ほぼ全てがキャッシュレス。現金を使う事は数ヶ月に一度となっている。普段財布はカード入れ。お札も小銭も入っていない。平たい車内に目を配ると、東京の丸っこいタクシー内で見かける清算用の機材やメーター、タクシー特有の独特な広告が表示されるモニターも何一つ置いていない。嫌な予感がした。
恐る恐る「あの、支払いでクレジットカードは使えますか」と聞くと「現金だけなんよごめんねえ」との返事。「ではSuicaは…」「なにそれ」
しまった、これでは無賃乗車ではないか!
瞬間、冷や汗がつたい鼓動が速くなる。
左腕に巻かれたApple Watchに心拍数上昇と表示される。そんなの知らされなくても私が一番解っている。私自身も田舎出身なのにすっかり忘れてた。田舎では兎にも角にも現金。現金こそ正義。生活全てに現金が必須なのだ。
窓から見渡す限りコンビニも無い。いや、途中で降りている時間はない。式は既に始まっている。一刻も早く会場へ向かわねば。落ち着け、会場には滋賀から向かった家族も居るし、親戚だらけだからそこで現金を借りればいい。
Apple Watchの通知を止めながら運転手さんに相談した。
「お恥ずかしながら、手持ちの現金がありません。式場に着いたら3分で戻って来ます。荷物も身分証も車内に置いていきますので、待っていてくださいますか」
「葬式って聞いて急いで来たんでしょ、気にしなくて大丈夫だからいってらっしゃい」
いい大人がべそべそしながらタクシーを飛び降りた。
よく見慣れた名字が入口に掲示されている。焼香が漂い、奥からは経を読み上げる声が聞こえてくる。扉をあけこっそり会場に入り、スタッフに喪主に近い人間を呼んでくれと頼む。奥からずいと立ち上がりこちらに来た人物を私は顎を上げて見る必要があった。190センチをゆうに超え、肩幅も広く体格も豊かだ。表情に幼さを残しつつ彼は柔らかく微笑んだ。誰だこれは…大谷翔平か?
「絵里加ちゃんやっと来よったね」いとこだった。あんなに小さかったのにこんなに成長しているとは。記憶の中の姿と目の前の現実に脳がチカチカする。
彼も、タイムマシンに乗ってここに来たのだろうか。
混乱しつつ数十年ぶりにいとこに発した言葉は「お金貸して」になってしまった。
タクシーの運転手さんに何度もお礼を伝え見送り、会場に急ぎ足で戻る。
当時、「絵里加が居ると賑やかだ」とよく祖父に言われていたが、今日も意図せず騒がしくなってしまった。飾られた祖父の写真を見つめ、その優しい声を思い出しながら着席した。
喋り出す夜
捲り上げ、薄暗闇に滑り込む。シーツの質感、毛布の柔らかさを肌に感じ、毎日使用して程よく馴染んだ枕に後頭部を預けた。一日の終わりに訪れる幸福の瞬間だ。瞼を閉じると暗闇が訪れる。私は大きく息を吸い込んだ。さらば世界。暫しの別れだ。英気を養い眠りに溶けて、明日もまた歩き出そう。
…眠れない。
私は寝つきがとにかく悪い。
たとえどんなに疲れていても寝付くまで最低30分から1時間ほどかかってしまう。物心がついてから人生で寝落ちた覚えが無い。気付けば寝てしまっていた事もない。さあ寝ようと意識を向けない限り眠ることが出来ない。
現代ではスマートフォンの影響や端末の普及により明かりを浴びる時間が増え、睡眠の質の低下などがよく話題に取り上げられる。市場には睡眠を促す商品も多い。かく言う私もベッドに入ると端末を操作し、ソーシャルメディアの何気ない言葉の羅列を眺めていたりするが、これが最大の原因ではない。私の場合は『私自身』が原因なのだ。
ベッドに入るとまず、頭の中で自身が喋り出す。
「今日はこんな事があったあの選択は失敗だったかまあ次回取り返せば良いだろうそう言えば昔似たような人に出会ったことがあるなあの人はあのメーカーのスマホを使っていてメールのやり取りが多いと言っていたな先日読んだ本の展開は唸るものがあったな映像化するならどう描くか顔のアップで撮ると勿体無いから引きでじっくり見たいな明日の仕事はあの服を着ようかな服といえば今日はレッチリのグッズであろうシャツを着ている人とよくすれ違ったなライブかなレッチリと言えばあの曲ええとタイトルは」以下省略
喋りすぎ。驚くほどに口が回る。いや実際には口は動いていないのだが。日常でも誰かにこんなに話す事はない。頭の中の私は、箱の中を跳ね回るゴム製のボールのようにぶつかっては加速していく。
ああ眠れない。寝かしてほしい。何よりも眠る事が大好きなのに。なんなら長時間眠らないと動けなくなる体質なのに辛いなあ寝れないと純粋にパフォーマンスが下がるしなんだか軽い吐き気と酔ったような感覚にもなるんだよなあそうそう酔うといえば…
ああ駄目だ、駄目だ止まらなければ。
これを読んでいるあなたは、修学旅行など団体で過ごすとき、友人宅で夜に酔うとき、どのタイミングで床に就くだろうか。私は、最後に寝て最初に起きる。人が起きていると眠れない。最初に起きて、周りが起きてくるのを待つのが好きだ。人をもてなすのが好きなのかもしれない。小学生の修学旅行ではあまりに私が寝付かないので生徒会長に早く眠るよう怒られた記憶がある正義感が強くフルートを習っていたあの子は今どんな大人になっているのだろうかカールした髪が印象的で…
…ちなみにこの文章は眠れずベッドの中で書いている。現在午前4時38分。外が明るくなってきた。ブラインドの隙間から灰色の空が覗いている。まるで疲れて霞んだ思考が目の前に現れたようだ。
そろそろ疲労も限界なので、意識も放り投げて自身を手放す快感を味わいたい。眠ってしまえばあとは任せるのみだ。もしや私は我慢して我慢して、報酬を大きくすることに喜びを感じてしまうたちなのだろうか海外の実験で報酬を得る為にどこまで我慢を出来るかと言う実験が…
うん、少しずつだが、跳ね返るボールの動きが見えてきた。
軌道の先に手を伸ばし受け止める。このままスマートフォンと思考をベッドサイドに放り投げよう。ボールは転げ落ちる。私の意識も枠を飛び越え、眠りへと向かう。
では、おやすみなさい。
(この後寝るまで1時間かかりました)