ある日突然、犬の心の声が聞こえるとか。
さりげなく何気ない日常のキリトリ雑記。
わが家にはめんこい柴犬がいる。
アイドル級に家族みんなからチヤホヤかわいがられている姫的存在だ。
番犬にはむかない人懐こさで、郵便屋さんや新聞屋さん、宅急便の配達員さんをもメロメロにしている。
名前は、清乃。
漢字で書くと「〜ぽさ」が伝わりづらい気がするので、あえて「きよのさん」と書くことにする。
私がそう呼んでいるからでもあるけれど。
きよのさんは、飼い主である家族の毎夕食後にお散歩に行くのが日課だ。
夫と私が担当している。
この散歩はきよのさんのトイレと気分転換、それから私の運動不足解消と、夫のメタボ進行を食い止めるのが目的でもある。犬の散歩を大義名分として人間の健康維持を図っている割合がチョットだけ多い気がするので、どちらかというときよのさんに付き合ってもらっていると言ったほうがいいのかもしれない。
あれは、風がまだ心地よい初夏の夕方。
夏至の一週間後くらいのとある日。
例によって、きよのさんと夫と草の生い茂るいつもの散歩道を歩いていた。
きよのさんは文字どおり道草を食うのが大好きで、草の生い茂る土手を駆けあがってイネ科の草をプチっとちぎってはムシャムシャと食べていた。
その日は立ち止まっては草を食み食みし、少し進んではまた草を食べ、わりと長いこと立ち止まっては食べていた。
夫はタバコに火を点けながら少し前をゆっくりと歩き、リードは私が持っていた。
きよのさんが立ち止まるたびに足を止めて、草を食べる様子をなんとなくぼんやりと眺めて食べ終わるのを待っていた。
空がうっすら夕暮れ時の色に変わりつつあった。
どこからか豆腐屋の笛の音が聞こえていた。昔と違って自転車ではなく軽トラで売り歩いているため、笛の音はあらかじめ録音された音声でどこか機械じみている。
きよのさんはといえば、あまりにもよくパクパクと口を動かして草を食べているので、ぼんやりとそれを見ながら何気なく「草おいしいかい?」と話しかけてみた。
そうしたら、きよのさんはムシャムシャと口を動かしながらふいに顔を上げて言ったのだ。
「おいしいよ〜」
………えっ。
今、しゃべった?
きよのさんがしゃべったの?
チョット待って、冗談でしょ!?
うなじのあたりの毛ががゾワッと逆立つ感覚がした。
話しかけた私は動揺してキョロキョロと周りを見まわした。
通りかかった誰かとか、近くのお家の子供か誰かがイタズラしてしゃべったと思ったからだ。
だがしかし夫以外、人影は見当たらなかった。
もう一度、きよのさんを見た。
あいかわらずムシャムシャと草を食べている。
いかん…私、犬の心の声が聞こえるようになってしまったんだろうか。いや困るよ、そんな急に!
動揺しながら念のため、もう一回きよのさんに話しかけてみた。
「…今の、きよのさんがしゃべったの…?」
きよのさんはなにも応えず、ひたすら道草を食んでいる。
だよね。
しゃべるわけ、ないよね。
私の空耳だよね。
いやでも確かにさっき「おいしいよ〜」って言ったよね。聞こえたよね!?
きよのさんのリードをグッと握りしめ、十数メートル先でタバコを燻らせながら立っている夫に早足に近づくと顔を近づけて迫った。
ね、ねぇ…聞こえた?
おいしいよって聞こえたよね!?
夫はタバコを咥えながらコクリと頷いた。
やっぱり!
夫にも聞こえたんだ!
てことは、夫にもきよのさんの心の声が聞こえたってこと!?
き、きよのさんがね「おいしい?」て話しかけたら「おいしいよ〜」て!!
動揺しまくりながら夫に訴えた。
夫はタバコを口に咥えたまま、おもむろに向こうの方角を見て言ったのだ。
…それ、豆腐屋。
遠くのほうで豆腐屋の機械チックな笛の音と、おいしいよ〜のアニメ声アナウンスが夕暮れの空に溶けていった。
きよのさんはあいかわらずキュートな仕草で、足取り軽く散歩を続けている。
ある日突然、犬の心の声が聞こえるようになるわけがないのだ。
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