#5自分の気持ちと向き合うこと
あなたはどうしたい?
そう聞かれてすっと答えが出てくるだろうか?
1. 日本人はなぜ「私は」が苦手なのか
私はどうしたいのか?
この問いかけはシンプルなようで、奥が深い。
まずこの「私は」の部分。これは日本の文化なのか、教育なのか、他のカルチャーでもそうなのかは分からないけれど、日本人はとかく「私は」こう思う。「私は」こう考える。「私は」これが正しいと思う。「私は」これがやりたい。
など、「私は」を主語にすること、自分を行為の主体とするのが苦手な人が多いように思う。
自分もそうであった。
子どもは「ねぇねぇ聞いて!」「今日私ね。。。」と自分のこと、自分を主体として周りの大人(主に親)にいろいろおしゃべりをし、自分の欲求に正直であるのに、いつ頃からか「私が」を苦手とするようになるのはなぜだろう。
「自己主張」という言葉にはネガティブな空気がつきまとう。
心理学辞典によると、「自己とは,同一性を保持して存在するその人間自身を指す。自己については自我egoとの定義の問題が絡むが,一般的に自らについての内的表象を指すには自己,心の統合機能を指すには自我が用いられることが多い。」とある。
つまりは「自己」は統合された自分自身であり、そこにはネガティブさはない。それなのに、それを「主張」すると、でしゃばりであるとか、「自己中心的」と受け取られるのではないかという恐れが出てくる。
そもそも、「でしゃばり」であること「自己中心的」であることはなぜ悪いのか。なぜそう受け取られることを恐れるのか?
2.「他人様に迷惑をかける」ことへの恐れ
日本には「出る杭は打たれる」という言葉があるように、人より目立つ、人より抜きん出ると平均値に押し戻す同調圧力が強い。と一般的に言われている。同調圧力は、人間が社会的生物であり、お互いに協力しなければ、生き残れないためどの文化にも必ずあるものだと思う。なぜとりわけ、日本社会、アジア圏ではそれが強いと言われるのだろう?
また、「他人様に迷惑をかけてはいけない」という刷り込みが強固にある。これは「世界は贈与で出来ているにもあったが、「迷惑をかける」=「何かしてもらう」=「等価値のものを返さなければならない」という負債意識が生まれ、これが重たくのしかかる。
しかし、この全ての物事に対価が必要と思う無意識下の思い込みは資本主義の論理だとすれば、もともと日本にあったのは「お互い様」「お陰様」の文化だったのではないだろうか。
3.「私」を尊重することが平和に繋がるかもしれない
本来ならば、「私はこう思う」でも「あなたはそう思うのね」と、お互いに違いを尊重できれば、「私が」と自分を主体とすることに恐れを感じる必要はない。「私」も「あなた」も、それぞれ独立した個であり、その人自身なのだから。
「私が」を言わないことは、一見相手を尊重し、立てているようだけれども、実は相手の「私が」も許容していないのではないだろうか。「私」「あなた」のどちらも認めず「私達」のみが許容される世界。個が存在しない世界。
一見平和なようだが、「私達」の外には「私達以外」の集団がある。「私達」は「私達以外」の価値観を認め、尊重することができれば、平和は維持される。しかし、歴史的にも世界情勢を見ていても「私達」は「私達以外」を敵視し、「私達」に統合するか、排除しようとする。
集団としての個性も認められない世界のシステムになってしまう。
つまり、「私」と「あなた」がある世界、個がそれぞれお互いを尊重する世界では「私」と「あなた」の中には同じ物があれば「私達」にもなれる。そして一方「私達」は一部の共通点でのみ繋がるので、多様さを維持しつつ、いろんな「私達」がその時々で生まれていく。そうすると「私達」と「私達以外」の区別は意味をなさなくなる。
「私が」が言える世界は、結果的に個々がぶつかり合うのではなく、個を尊重しながら、全体としても争いのない、平和で豊かな世界なのだと改めて思う。
だから恐れず自分にも、他者にも問い続けていきたい。
「私は」どうしたい?
「あなたは」どうしたい?
5/12/2021ジャーナルより
5/14/2021