「一人ひとりの創造性を取り戻す『コンテクストデザイン』」受講を終えて今思うこと。&事前課題まとめ。
9月21日、flier book labo講座「一人ひとりの創造性を取り戻す『コンテクストデザイン』」のDAY4が行われ、全4回の講座は終了した。4つの事前課題に取り組みながら、わたしは終始一貫して “自分の好きなもの” を取り上げ続けていたような気がする(気がするというより、途中ではっきりと気づいていた)。
それはある意味では自分のぶれなさを確認するプロセスでもあったし、ある意味では凝り固まった「偏愛」「執着」への気づきにもなった。
クリエイティブは0から1を生み出すものではなく、すでにあるものを結び合わせたり収集したりすることからも生まれる。あらゆる創作は先行事例や社会情勢の影響を受けている。それがすべてに先駆けていれば「前衛」と呼ばれるのだろう、しかしみんながみんな前衛を目指す必要はないし、自分の場所で実直にやっていくことも尊い。
わたしが仕事以外にもっとも時間を割いてきた文学の領域は、なぜか軽んじられがちな傾向がある。高校国語のカリキュラムでも、論理的文章と実用的文章を扱う「論理国語」と文学を扱う「文学国語」とで線引きがなされた。いずれも必修というわけではなく、選択科目であることが引っかかる。
実用的文章は生活に直結しているから重要だというのは理解できる(例えば契約書など)。でも、それは国語力というよりは読解力の問題だと思うし(読解力は国語力を構成する一部分にすぎないと思う)、社会を構成するひとりとして生きていくためには、文学的な感性こそが必要なのではないか。
国語教師になるほどの人が、契約書の読み方を生徒に教えたいと思うだろうか。自分なら、日本をはじめ世界の名作を囲んで、未来ある若者たちと語り合いたい。
学生時代はあらゆる文学的な本を好んでいたはずが、ビジネスパーソンになったからといってビジネス書ばかりを棚に並べていることもきっと多い。駅構内の小さな書店のラインナップを見たときや、友人知人の部屋を訪れてこっそり本棚を盗み見たときなどにそう思う。
けれど、小説や詩を読んだ経験がその人の素地になっていたとしたら、きっといつか文学が人間にとってエッセンシャルなものだと気づく日が訪れるかもしれない。
わたしがこれからさらに意識的にやっていきたいのは、あらゆる仕事や人付き合いの仕方に、文学を織り込んでいくことだ。読書に「誤読」はつきもので、「だれがなんと言おうと自分はそう感じた」「著者の主張とはちがうけど自分はこう思う」というような「弱い文脈」を大切にしたい。
文学は暴力に立ち向かう非暴力の武器になりうるし、悩みを抱えたとき乗り越える力にもなる。創作を通じて歴史や戦争を考え続けている人もいるし、生活を歌に昇華している人もいる。盃を交わしてともに語り合う時間の豊穣さをわたしは知っている。
以上は、わたしが講座を終えた直後の感想(走り書き)である。またゆっくり考えて何かを綴りたい。この下は、取り組んだ事前課題を置いておく場所にする。
DAY1 「弱い文脈が強い文脈になるとき」
弱い文脈として放たれたものが、その後新たな常識や枠組みを作ったり、他者に対して大きな影響を与えたりすることがある
DAY2 「誤読・誤配・解釈が生み出すちから」
「書き手」が当初意図しなかった「読み手」の想像力によって、当初と異なる価値が生み出されたり、意味が付与されたりすることがある
DAY3 「一人ひとりの創造性が引き出されるとき」
一人の「書き手」よりもむしろ複数の「読み手」がクリエイティビティを発揮することがある
または「読み手の集合」がいつの間にか書き手に入れ替わることがある
DAY4 「あなた自身の弱い文脈とは?」
参加者のあなた自身が抱いている、まだ世の中に認められていない「弱い文脈」は?
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