立野正裕 紀行 失われたものの伝説
しばらく間が空いてしまいましたが、立野先生の著書再読シリーズ第6弾。今回は彩流社から刊行されている「紀行」シリーズの皮切りとなった「失われたものの伝説」(2014年)を読みました。各章、敵対する二者の間に芽生える同志愛や共感がえがかれ、人類の無限の可能性を読み取ることができるところが、この本のすごいところだなと思っています。
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◆第一章 ノルマンディへの旅 キース・ダグラスの詩を探して
この章、主人公となるのは英国詩人のキース・ダグラス(1920〜44)である。ノルマンディ上陸作戦に大尉として従軍。24歳の若さでドイツ軍から放たれた追撃砲弾の破片が頭に入り込み、即死した。
24歳で大尉というのは、彼が軍人としての資質を遺憾なく発揮していたことと、その能力を認められていたことの証拠である。しかしたんなる交戦的な人物にとどまり得なかった。それは戦争が資本家や政治家が自己の利益のために利用する手段であることを彼が見抜いていただけでなく、互いを殺し合う敵同士のあいだにも同志愛が芽生えることに着目し、「なぜ人間は戦争をするのか」という問いを掘り下げたからである。
ダグラスの詩「人を殺す」は、第一次大戦と第二次大戦に挟まれたまま育った世代の宿命を喚起させる。子どもはボール=手榴弾をあらかじめ手に握らされている。それを投げつければ生身の人間を塵に返すことは造作ないことだ。自分が塵に返ることも同様に。
ダグラスは自分たちの戦いが第一次大戦の二番煎じに過ぎないことを自覚していたという。それが彼のもう一つの有名な詩「死んだらぼくをあっさり片付けてくれ」に強烈な簡素さ、無への固執を表さしめていた。
著者は戦没者墓地のダグラスの墓前に立ち、こう思うにいたる。
「ダグラスの逆説に連想が走る。戦闘における敵対関係を極限まで突きつめてゆくと、敵味方のあいだに「同志愛の感覚」が生じてくる、というあの逆説だ。ファシズムとの戦いだったが、同志愛の感覚においてはナショナルなものの閾を越えたこの若者は、この近くで死ぬ直前まで、その感覚を思想に転換し得る可能性を秘めていたのだった。」
◆第二章 イタリア南部への旅 カルロ・レーヴィの流刑地を行く
カルロ・レーヴィ(1902〜75)は北部トリーノ生まれのユダヤ系イタリア人の小説家、画家、医師、ジャーナリスト、旅行家、政治家である。
ファシズムへの抵抗活動を行い1930年代半ばに逮捕され、南部のアリアーノ村へ流刑となった。1936年特赦により解放、パリに亡命してファシズムとの戦いを言論により続行。第二次大戦のさなか帰国、ムッソリーニの失脚後にナチスが北イタリアを支配していた。ユダヤ人狩りから逃れるためにフィレンツェで身を隠しながら傑作『キリストはエボリに止まりぬ』を執筆した。
レーヴィの時代、イタリアの南部は北部とはまったくちがう様相を呈していた。流刑地アリアーノや「イタリアの恥部」とまでいわれたマテーラは、極貧の農村地域である。
あのキリストでさえ、深南部の入り口に位置するエボリよりも奥には歩みを進めなかったという言い伝えがある。地元の人々は自分たちのことを「見捨てられた民」と感じていた。
レーヴィは晩年、二期にわたり上院議員を務め、1970年にローマで亡くなった。彼の遺言は、自分の墓をほかならぬアリアーノにたててほしいというものだった。
ローマ・カトリック正教会や西欧近代主義の視点から見た南部は異端であり、無価値であり、野蛮なものであった。しかしレーヴィは暗い風土と忍従のうえにも独自の文化が、エネルギッシュでしたたかな豊穣さが育まれていることをしかと見たのである。
そして、旅人は見る人でもあるが、実は土地の人々や景観、事物によって見られる存在であることを自覚していたのもまた、レーヴィという人であった。
◆第三章 ウクライナへの旅 ミハイル・スヴェトロフの詩を探して
著者がウクライナのひまわり畑に出かけたのは、2011年8月のことだった。この年私は大学4年生で、8月末には3、4年と院生が一堂に会するゼミ合宿が開かれた。ウクライナから帰国されて間もない先生は、学生たちにヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画『ひまわり』を見せた。その時の議論がうっすらと記憶に残っている。この章はそんな懐かしい記憶とともに私の眼前に現れる。
『ひまわり』の主人公イタリア人女性ジョヴァンナは、戦争に出かけて行方不明になっている夫を探すためにウクライナにやってくる。映画に登場するイタリア人戦没者墓地を筆者は懸命に探したが、ついに見つけられなかった。そしてその墓地の付近には詩碑が立てられており、それはミハイル・スヴェトロフの詩なのだと映画の中でイタリア語に訳されるくだりがある。
墓地も詩碑も見つけられなかった著者は、この詩について帰国後に調べ始めた。それは映画ではやや短く改変されているようだが、引用元の詩は「イタリア人」(英語文献では「イタリア人の十字架」)であることは間違いないようだ。
この詩には、「この地、この平原できみを殺したのはわたしだ」と言い切る正々堂々とした態度がある。侵略者であるイタリア軍に対して、祖国の土地を守るために断固として武器を取る。しかし、イタリア人たちに憎悪を向けることは決してない。そこにあるのは同じ民衆としての共感のまなざしである。
このまなざしは、『ひまわり』で死にかけているアントニオを献身的に助けたウクライナ人の娘マーシャのものと同じである。二人の間には愛情が芽生える。アントニオを探しに来たジョヴァンナは、マーシャのアントニオへの愛の深さを認めざるを得なかったので、身を引くしかなかったのである。
若かった私は、ジョヴァンナの身を引き裂かれるような苦痛は想像できたけれども、マーシャの気持ちを我がことのように想像することはできなかった。今もう一度あの映画を見てみたい。
◆第四章 トルコへの旅 ナーズム・ヒクメットの詩とパルチザンの少女
ナーズム・ヒクメット(1902〜1963)はオスマン帝国崩壊後にトルコ共和国が生まれた時期、政治意識の高い若い詩人であり、反オスマン帝国主義者であった。
1921年、KUTV(東洋労働者共産主義大学)に入学するためにモスクワへ赴き、1924年に帰国。直後、トルコ共産党に入党した。かつてヒクメットら若い詩人たちに「目的意識をもって詩を書きなさい」と説いたケマル・アタテュルクは、アンチコミュニズムに政治姿勢を急旋回させ、左翼勢力への弾圧制作を強めるようになっていた。ヒクメットは懲役13年を求刑され、再度モスクワへ、今度は亡命のために赴くことになった。
ヒクメットはのべ17年間の獄中生活を送り、獄中で大著『人間の風景』に取り組んだ。その中でゾーヤ・コスモデミアンスカヤという18歳の少女のことを詳しく書いている。ドイツ軍がソ連に侵攻したとき彼女はパルチザンになった。ドイツ軍に捕らえられたゾーヤは、ひどい拷問を受けたが最後まで口を割らず、やがて絞首刑に処された。彼女が最初のソ連側のパルチザンの処刑例となった。
ヒクメットはゾーヤに呼びかけた。
この心からの共感にあふれた呼びかけは、時代、民族、性別、年齢、生死は関係なく可能である。さらにいえば、魂と魂の出会い、対話までも可能であることをヒクメットの詩は教えてくれるとの著者からの教示に、私は非常に勇気を得た。
◆第五章 知覧への旅 特攻から七十年
この章では日本の特攻隊に自分の乗っていた駆逐艦を撃沈されたアメリカ人の生還者が登場する。フレッド・ミッチェル氏は、ドキュメンタリー映画『TOKKO 特攻』(2007)の日本公開に合わせて来日した。
彼は「自分たちの艦に体当たりした日本軍特攻機とそれを操縦していた日本人に対する憎悪を乗り越えられぬまま生きて来なければならなかった」。日本人の発想も、あんなことをやってのけてしまうメンタリティも、理解できなかった。それを知りたいからこそ、映画制作後に来日を希望した。
それだけではなかった。聖アウグスチヌスの「汝の敵を許すために敵を愛せ」の言葉を目にした瞬間、それがどうしてもできずにいる自分とは何者なのかという、クリスチャンとしてのアイデンティティを失いかねない葛藤が生まれた。
この自責の念は、一方の日本人の精神構造には希薄なものであると著者は指摘する。日本人は未だ、ムラ社会としての伝統的な集団主義的思考法を温存している。この指摘ほど現在を生きる私たちに突き刺さるべきものはない。
◆第六章 ドイツ東部への旅 強制収容所と戦略爆撃
著者は2008年7月から8月にかけて、ドイツ南東部の二年を訪れた。その一つはミュンヘンである。ナチス揺籃の地ミュンヘンを私も訪れたことがあるが、党大会が行われたことのあるホフブロイハウスで大ジョッキのビールと白ソーセージを食べるなどという観客然とした旅だった。
むろん著者の旅はそんなに生温いものであるはずもない。ミュンヘンのほどちかくにダッハウという都市がある。ここは最初の強制収容所が作られたところでもある。著者はミュンヘンのホテルを引き上げて、ダッハウ強制収容所を二日かけてじっくり見学するためにここへ1泊したのである。
合理性を究極まで突き詰めることで大量の人間を殺したナチスの真実を見つめることは「テクノロジーが最優先され、科学技術こそ至上主義的な価値を持つかに見える現代世界に生きるわれわれ」にとって義務の一つであろうという。全章あたりから畳みかけるように、今・日本に生きる・私の姿勢を正される思いである。
しかし著者はこうも告白する。日本人である自分が強制収容所跡を目の当たりにしても、なぜか寄り添っていくことができない。所詮外部からやってきた一介の見学者というにすぎないと書いている。
1972年、ミュンヘンオリンピックでイスラエルの選手11名がパレスチナの過激派によって人質に取られ、全員死亡するというテロ事件が起きた。その顛末が語られるが、ここで批判されるのは事件が起きているのを知っていながら協議を中断しようとしなかった国際オリンピック委員会、競技のことしか頭になかった他国の選手たち、そして何よりの問題は観客たちであった。
かつて、ドイツを始めとする東欧に強制収容所が多数存在していたにもかかわらず、そこで何年にもわたって大虐殺が行われていたにもかかわらず、「知らなかった」と周囲の人たちは口を揃えた。1972年にも同じことが繰り返されたのではないかという指摘に私は誰よりも自分自身がどう言動できただろうと想像を巡らせる。
翻って同年の日本では連合赤軍によるあさま山荘事件が起きた。閉鎖されたアジトで起きたこと、これもまた似たような構図があったのではないか。自分がもしそこに居合わせたとして、果たして「総括」を恐れずに違和感を口に出して表明することができたのだろうか。
パレスチナのテロ実行犯の目的は、世界の耳目を自国に集めるためだった。これは成功したと言える。忘却と無関心に対して、関心を払われることのなかった民は報復を考える。忘却と無関心は、暴力とテロリズムに温床を提供するという真理を今一度刻み込むべきだ。
著者がこの旅で訪れたもう一つの都市はドレスデンであった。エルベ川のフィレンツェと呼ばれた美しい都市は、連合国軍の空爆によって一夜にして焼き尽くされた。この爆撃の系譜は現代にまで連綿と続いているものであり、私はもっと学びを深めていかなくてはならないので一旦ここには書かないでおく。
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