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反社会的な初めてのnote

友人がnoteを初めて、俺もいつかnoteに何かを書こうかと思っていたが、なかなか切っ掛けに悩んでいた。
アントニオ猪木の逝去を以てnoteを始めることになるとは…しかし、幼年期の頃から今に至るまでの俺のリアルな人生にはいつ見ても合わせ鏡の様に昭和プロレスの胡散臭さの残像が映し出されている。
さて、狂気のプロレス画像がハッキリと脳裏に焼き付いて取れなかったのは、確か小学校低学年の頃に、アブドーラ・ザ・ブッチャーザ・デストロイヤーの一戦であった。
大阪の万博会場での野外試合での大流血マッチ…今では放送禁止のレベルのデスマッチ。それを祖父の家で祖母が大興奮しながらデストロイヤーを応援していた。
子供心に、その流血試合にも驚いたが、極めて厳格な祖母が大流血の2人のレスラーを見て興奮していた事が何故か忘れられない。
プロレスの話を語り出すと1冊の本が出来上がってしまうので、ここはアントニオ猪木と俺の話を語ろう。
アントニオ猪木と俺は都合3回お会いした。先ず1度目は彼が引退前だったか引退後だったかハッキリとは覚えていないが、エネルギー関係の話で何人かの内の1人として。何だかドクター中松の様な話を猪木さんの隣にいた人が説明していた。2回目は俺が日本スポーツ出版社の社長に就任し「週刊ゴング」の立て直しに東奔西走していた時だ。これはこれで酷い話で、詐欺師の前田前社長と弘道会の関係者がやった会社乗っ取りを詐欺師に近い(いや詐欺師より悪質な)弁護士から「山田さん週刊ゴングの社長になってくれない」と頼まれ、ゴングが月刊誌だった頃からの購読者だった俺は否応もなく引き受けたのだが…(この顛末はいずれ書く)
その時に猪木さんにご挨拶に行った。一言「やれるだけ頑張れよ」とのお言葉を頂いた。
3回目の邂逅はホテルオークラのティーラウンジ…この頃、猪木さんはホテルオークラを常宿にしていたみたいだ演出家の康芳夫さんと3人でお茶をした。初めて猪木さんの隣に座ったが、試合会場や対面で見るより実は小さく俺と余り変わらないくらいの恰幅、もちろん引退してからだが、まだジャーニーズの滝沢とレセプションをする前にだし。猪木さんに限らず、輝いているレスラーはリングに上がるとそのオーラで実物以上に大きく見えるものだ。スタン・ハンセンハワイで会った時もそう感じた。あと、猪木さん…最後の奥さん…俺の友達、東声会(東亜友愛事業組合)の町井久之会長の長男佐藤雄二の元カノです。
今考えるとアントニオ猪木さんは生前、かなり前から環境問題SDGsに取り組んでいたのだとその先見の明には脱帽するばかりだ。

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