仕事を辞めたくて仕方ない新人看護師へ
「看護師3ヶ月だけど辛い。やめたい」「仕事に行くこと考えると落ち込む」「私、看護師向いてない」
ここのところ毎日、比喩でなく本当に毎日、そんな言葉を新人看護師の知人から聞いたり、SNSで見かけたりします。
しんどい、やめたい、いきたくない、こわい、そんな言葉を見る度に、自分が新人だった時のことを思い出して、他人事と思えない気持ちになります。
今は7月、入職して3ヶ月で、多くの病棟の1年目看護師は、検温は自立、採血や処置は上司の指導を受けつつ徐々に自立していく、という段階でしょうか。日勤自立や、夜勤を開始している場所もあるかと思います。
私は現在5年目看護師として一般病棟に勤務していますが、今でも新人の時のことを思い出すと動悸がします。当時はただただ辛い、何をしていても考えがまとまらない、自分がまるで無価値なような気がして気付くと涙が出てくる、そんな毎日を送っていました。
周りの新人看護師を見ていると、どうしようもなく当時の自分と重なります。
この先に書くことは、私自身が1年目を振り返って、何が辛かったのか、苦しかったのか、恐怖と不安の元になっていた具体的な出来事の分解で、どんな風にその辛さをやり過ごしてきたか、あるいは逃げてきたかの検討です。
「できない」事実を突きつけられる毎日
新人看護師にとっての辛いことの要因は大きく分けて3つあると私は考えます。
1つ目は、「できない」事実を常に突きつけられるストレスです。
物品の場所も電子カルテの触り方も分からない中で、毎日頭の容量がいっぱいになっても後から後から分からないことが出てくる日常で、
1年目の私は、例えば、先輩が点滴5本詰めている間に1本目すら詰め終わっていなくて、ドクターに物を渡すだけの処置の介助でシリンジを落っことし、巻いてスイッチを押すだけの自動血圧計は私が測るとやたらと低い値が出て、点滴の滴下数の計算は患者さんの前に立った瞬間にぐちゃぐちゃになって、先輩が真っ直ぐにあてられるおむつは私があてると無様に曲がってしまって。
誰にでもできると思っていたことが何ひとつできなくて、「最初だから仕方ない」と自分に言い聞かせてみても、一昨日も失敗した、昨日もできなかった、今日も注意された、明日もきっと役に立てない。
そんな想いが積み重なって、「私は役に立たないんだ」「いやきっと看護師に向いてないんだ」「看護師になんてなるんじゃなかった」と、病院からの逃避を魅力的なものとして考えるようになっていました。
最初なんだからできなくて当たり前。今思えば、頭で分かっていながら心で割り切れないのも、また当たり前なのかもしれません。
看護師を数ヶ月で辞めた友人の多くは、「看護師として働く」ことへのイメージがとても具体的で、だからこそ「自分ができない」事実に耐えられなかったように見えるところがあります。高い志を持つのはすばらしいことですが、入職数ヶ月の段階で、周りと同じように動けなければいけないと思う必要はありません。どうか目標は「定時に出勤する」程度で良いから、追い詰められないで欲しいと心から願います。
人が死ぬ環境とどう向き合うか
新人看護師の辛さの2つ目は、自分の行為が他人の痛みや生死に直結することへのプレッシャーと恐怖です。
毎日のように行う採血ですら、「他人の身体に針を刺す」という危険な行為が、自身の心の負担にならないわけがありません。
滅菌操作ひとつできなければそれが原因で感染症になり得ます。新人看護師には、突然の状態悪化にどう動くべきかも、何が緊急で何がそうでないかも分からないけれど、選択を誤れば患者は死にます。その上何を間違えなくたって、通常人間が一生に数度目にするかしないかという「人が死ぬ」場面が日常に組み込まれている環境に何ヶ月も晒されていれば、誰だって正気を保つ方が難しいのではないでしょうか。
初めて点滴投与をした時のことを今でもよく思い出します。自分の名前が登録された電子カルテで読み込んだ点滴ラベルのバーコード、「この人がこの患者に点滴を入れましたよ」というサインを見た時、もしも患者を間違えていたらどうしよう、もしも薬を入れる量を間違えていたらどうしよう、もしもアナフィラキシーで呼吸が止まったらどうしよう、もしも、もしも…
自分のすることがほんの少し間違えば誰かを死なせてしまうことが恐かった。自分がいつ殺人者になるのではないかと怯える中で誰かをケアすることなんてできるわけがないと、そう思っていました。
5年目の今でも、その恐怖は常にあります。患者さんを看取る中で、私がもっと上手に対応していればこの人は死ななかったんじゃないか、私の観察が甘かったから急変したんじゃないか、私のせいで死んだんじゃないか、私が殺したんじゃないか、そう思い始めて止まらなくなって一晩中泣き続けたことも、何度もあります。
今の自分がどうやってその恐怖と共存しているのかと考えても、正直うまく言葉にすることができません。
「誰も気付かなかったら患者さんの命が危なかった何か」に気付いた経験を糧にして仕事を続ける看護師もいれば、「誰のせいじゃなくても死ぬ時は死ぬんだから仕方ない」と一線を引く看護師も、「それが寿命ってものだから」とどうにか納得する看護師もいます。
日々目の前で誰かが死ぬ、そして自分が死なせるかもしれない、そんな辛さとの折り合いのつけ方は、各々の現場で起きる現実次第で如何様にも変わるでしょう。
「こういう考え方をしたら大丈夫」と言い切ることはできないけれど、新人看護師に覚えておいて欲しいのは、他人の生死に関わることは自分の心に強い負担がかかる事実、恐怖を恐怖と思うのは悪いことでもなければ看護師に向いていない訳でもないということで、その恐怖をどうやり過ごすか、あるいは取り込んでいくかという疑問は、私にとっても答えの出ない大きな課題です。
人間関係の折り合い
新人看護師の辛さの3つ目は、言い古された内容ではありますが、職場の人間関係です。
本当は言いたくないことではあるのですが、「こんな人が他人の命に関わる仕事をしていて良いの?」と思ってしまうような、信じられないくらいに人として未熟な人間が看護師として働いている現場は、少なからず存在します。
例えば何について質問しても何も教えてくれない、挨拶すら無視する、「あんたは看護師に向いてない」と言い放つ、これ見よがしに舌打ちする等々…。人としての扱いをされない現場の話を聞く度に辛くなります。
私自身、新卒で入職した職場で毎日無視され、かと思えば唐突に怒鳴られ、「使えない」と言われ、私がミスしたことが赤字で印刷された紙をナースステーションの真ん中にセロテープで貼られる、といった経験をしました。
今思えば完全にパワハラだったのですが、当時は「私ができないから悪いんだ」と思い続けていました。だんだんと、誰かが悪口を言われているのを聞くだけで自分が責められているような気持ちになり、手の震えが止まらない、食事が摂れない、突然涙が止まらなくなるといった状態を経て、起き上がることすらできなくなり、2年目の途中に重度抑うつ状態の診断を受けて休職、退職の後に別の職場に移りました。
診断から3年近く経つ現在でも完治せず、精神科への通院を続けています。
ただでさえ心に大きな負担のかかる場所でどう自分を保つか模索するためには、同じ状況を共有している人との関わりが不可欠です。にも関わらず、私が最初に入職したところはそうではなくて。
「3年働いて1人前」と看護の現場ではよく言います。私もそれを信じていました。今思えば、もっと早く逃げていれば、今もこんなに苦しい気持ちで生きる人生にはならなかったのだろうと思うし、最初に入職した職場で人として指導を受けるか、それとも1番何もできないゴミとして上の看護師のストレスのはけ口にされるかは、運でしかないとも思います。
私のように潰れてしまった看護師もいれば、ないがしろにされたことをバネにする看護師もいます。悲しいことに、新人の時に上から嫌がらせをされた経験をそのまま自分の中に取り込んで、次の新人に同じことをする看護師もいます。
私自身の経験の全てを一般化することはできませんが、少なくとも新人看護師には、自身が職場で人として扱われているかどうかは冷静に考えてみて欲しいし、その中で耐えるにしても逃げるにしても、「人として尊重されない環境の中で自分を保つのはとても難しい」ということは忘れないで欲しいと思います。
おわりに
ここまで書き連ねてきた言葉は、何の論文を参照しているわけでもない私の個人的な経験です。新人看護師の全員の辛さが私と同じものだなんていう気はさらさらありませんし、私が新卒で入職したのは血液内科病棟でしたが、他の科や施設によってまた違う辛さもあるでしょう。
とはいえ、新人看護師の高い離職率を考えれば、私の経験がとてつもなく特殊なものだとも思えない。私にとって、新人看護師という経験は、私自身が心を壊すほどに追い詰められるもので、あの不安と恐怖に今誰かが無防備に晒されていることがあまりに悲しい。
単なる個人である私が過去の苦しさを解きほぐして言語化することで、新人看護師に向けて明快で高尚なアドバイスができるわけではありません。そんな思いをしても尚、いま私が、新卒と別の病院とはいえ臨床に居続けている理由も正直よく分かりません。
私にとっては、「何か辛い、どうしても辛い」と漠然とした恐怖や不安にただただ怯えるよりも、その気持ちの中で起きている現実を分解することで、苦しさそのものとの距離感を取る方が、自分を保つ上で重要で。
自分は何を辛いと感じるのか。またその中でも何があったらすぐに逃げるべきかの見当をつけておくことは、穏やかに仕事を続ける上でひとつの基準に成り得ると感じます。
新人看護師にとってはこんな文章を読むよりも、お酒を飲むとか服を買うとかテレビを観るとか、そういった分かりやすいストレス発散が必要な時期だとも思います。
それでも、苦しさの内部に踏み込みたいと、踏み込まなければと考える時が来る可能性もあります。そんな時にこの文章が何かの役に立てばと、心から願っています。