クリティカルデザインの何がクリティカルなのか- コンテンポラリーHCIセオリー
インタラクションデザインマスター、2セメスター目。HCI基礎クラス。
今回の課題論文は、2013年にJeffrey Bardzellらによって発表された『What is "Critical" about Critical Design?』です。読み始めてから、これは私がかなり好きなやつだ! と思ったので、読み進めつつメモを取っているのですが、長句なってきたので途中まで。
Critical Designは、Anthony DunneとFiona Rabyによって作られたコンセプトで、建設的デザインの一つです。クリティカルデザインは、デザインの力によって人々が日常生活に対してクリティカルな見方をするように導くこと、人々に「あたりまえ」を疑わせること、を目指しています。
今回の課題論文では、その「クリティカルデザイン」をクリティカルに論じています。
1. クリティカルデザインはHCIデザインコミュニティにとってとても高いポテンシャルを持っている。
2. 実際のプラクティスに活用できるようなクリティカルデザインに関する研究文献があまりない。
3. デザイン理論者や研究者は、DunneとRabyが言わんとしたこと紐解くのではなく、自らがアクティブかつクリエイティブに、コミュニティが求めるクリティカルデザインを作り出していくべき。
クリティカルデザインは、一見HCIリサーチと親和性がたかそうに見えますが、実はあまりHCIの世界では使われていません。Bardzellら(2013)は、HCIリサーチャーがあまりクリティカルデザインについて知らないからではないか、と書いています。「クリティカルデザインとは何なのか」ということに関する混乱や、誤解も少なくないようです。
クリティカルデザインの起源とゴール
ドイツにある、フランクフルト・スクール・オブ・クリティカルセオリー(そんな学校があるんですね!)のHrkheimer, AdornoとMarcureによると「マスメディアと消費者文化の産物は政治的に後退している」のだそうです。優勢な階級は、優勢であるものが自然でいいモノであるという神話(ideology)を普及させ、労働者階級に本来彼らの興味の対象ではないこの仕組みに乗っからせること(alienation)によって優勢さを保っているのです。消費カルチャーがこの仕組みのポイントで、映画、雑誌、デザイン、社会常識、などが労働者階級を形作っていきます。もし、このような仕組みを明らかにして、人々に意識させることができれば、私たちはイデオロギーなどに囚われず、社会のために動くことができるのではないか。クリティカルデザインの起源です。背景にはマルキシズムなどがあるようです。
DunneとRabyは、フランクフルト・スクールから少し距離を置いているものの、似たようなことを言っています。
デザインは二つの大きなカテゴリに分けることができる:肯定的デザインと批評的(クリティカル)デザインだ。前者は、今現在物事がどうであるのかを肯定し、文化、社会、技術そして経済的な期待に沿うもの。多くのデザインはこのカテゴリに入る。後者は、現在物事がどうなっているのかを拒否し、デザインを通して常識を批評し、代わりの社会的、文化的、技術的、経済的価値を提供しようとするものだ。
- Dunne & Raby
デザイナーはいろんな方法で危険なイデオロギーを増産する可能性があります。よく言われるダークパターン、ダークUXはまさにそうした例でしょう。デザイナーという職業は、倫理的このようなことに関わっています。
クリティカルデザインは、デザインを通して人々の中に批評的な感受性を養おうとする戦略です。いわゆる「クリティカルシンキング」ですが、それに「デザイン」を使う、というのが「クリティカルデザイン」です。これはメソッドというよりも、姿勢、考え方、とも言えまxす。
クリティカルデザインは肯定的デザインの対極にある
現段階で、このグローバルキャピタリズムを増産する肯定的デザインに対するクリティカルデザインは、プロフェッショナルにとって使いやすいものというより、政治的なものに止まっていると言います。また、一体誰がどのようにして、そのデザインが肯定的デザインに属するのか、それともクリティカルデザインに属するのかを決めるのか、というというも残ります。
例えば、日本の消費者向けデザインが度々欧米にショックを与え、欧米ではクリティカルデザインと捉えられますが、日本ではそれは単なる消費者向けデザインだったりするわけです。逆も然りです。もしデザイナーがクリティカルな視点から何かを作り出しても、もしも周囲がそれを消費者デザインと捉えたら、それはクリティカルデザインとは呼べないのです。また、キャピタリズムは、反体制文化をあっという間に取り込んでそれをメインストリームにしてしまうことに長けています。
クリティカルデザインはアートではないのか
クリティカルデザインとアートは混同されがちです。コンセプチュアルアートなんかも「気づき」を与えたりするわけで、すごく似ている。Dunne & Rabyは、アートは非日常的で、ショッキングで、駅ストリームだ、それに対しクリティカルデザインは日常の中にあって私たちに気づきを与えるのだ、と言っています。しかしBardzellらはこれに対し、彼らの見方は非常に狭窄であるといいます。私たちの日常のあらゆる場面でアートがあります。バレエを習う子供たち、アートギャラリーに立ち寄る午後、寝る前に楽しむ映画や小説、私たちの日常にはアートが溢れています。アートとデザインの境目はすごく曖昧で、時に共存しているのではないでしょうか。
クリティカルデザインはクリティカル
批評的であること、それがクリティカルデザインと他のデザインとの違いです。しかし、いったいそれをどうやって定義するのでしょうか? 「違う角度から見てみる」というけれど、違う角度から見た時に一体何を見つけるべきなのでしょうか? どうしてその発見が重要だと言えるのでしょうか? それは「(In)human Factors」だとDunne & Rabyは言っています。この「(in)human Factors」を理解するためには、元の文献を読まないと行けなさそうです(後日)。Dunneによると、ユーザビリティはイデオロギーを曖昧にして受動的になることを助長するので良くない、のだそうです。
クリティカルデザインの再構築
Bardzellらはこの論文のなかで、Dunne & Rabyによるクリティカルデザインのコンセプトから維持したいものとして以下の点をあげています。
- クリティカルデザインプラクティスはデザイナーが倫理的な立ち位置をはっきりさせるのに役立つ
- クリティカルデザインプラクティスは公共にとって良くない隠されたイデオロギーを疑う
- クリティカルデザインプラクティスは楽観的に探求し、挑戦し、新しいデザインの価値を普及させる
- クリティカルデザインプラクティスはデザイナーと消費者の中に不批評的な認識を養う
- クリティカルデザインプラクティスは民主的で誰にでも開かれているアクティビティである
しかし、現在のクリティカルデザインには今まであげたような問題点、疑問点があり、「クリティカル」の概念を考え直すことによって、以下に挙げる問題の解決につながるのではないか、とBardzellらは書いています。
- Dunne & Rabyの言う「クリティカル」は極端に狭い定義であり「クリティカルデザイン」を神格化してしまう。
- 肯定的デザインとクリティカルデザインの違いが曖昧である
- クリティカルデザインとアートの境目も曖昧である
クリティカルセオリーとメタクリティシズム
「クリティカル」の概念を考え直すために、Bardzellらは過去150年にわたるクリティカルセオリー及びメタクリティシズムの文献を分析したそうです。
クリティカルセオリー:
マルクス、ニーチェの哲学に基づいた懐疑的な社会文化批評。フランクルト・スクール・オブ・セオリーや1950-1980年代に発達したクリティカルセオリー、記号論、脱構造主義、フェミニズム、精神分析、マルキシズムを含む。
メタクリティシズム:
クリティシズムのカテゴリとは? クリティシズムの善悪を区別するものは? クリティシズムの社会的役割は? と言った問いに答えようとするもの。アートの批評や英語の文芸批評などに見られる。
詳しくはオリジナルの論文を参照ください(またあとで書くかもしれませんが、面倒になってきた...)。
結論
HCIにとってクリティカルデザインはとてもフィットするのだが、実際にはあまり使われていない。それは、明確さに欠け、参考例が少なく、広く受け入れられるためのディレクションにかけているため、特に「クリティカルデザインの何がクリテ怒るなのか」という概念がはっきりしないためであると考えられる、とBardzellらは述べています。
論文を読んでみて
クリティカルシンキングのデザインバージョンということで、非常に興味深い内容でした。この論文で批評の対象となった「クリティカルデザイン」の生みの親たちの本も読んでみたいと思っています。