マンハッタン・プロジェクト
唐突ですが…
先ほど「AI」「ガイドライン」でググったのですが、出てくる、出てくる、山のように PDF がリストアップされました。各省庁や地方自治体、業界団体などなど…指導監督の立場にある団体は「うちも作らなくっちゃ」とばかりに資料を作成したのでしょうかねぇ?数が多すぎて、どれを見れば良いかわからないのが正直なところです😂
いずれも「AI倫理」が話題の中心に据えられているように見えるのですが、ガイドラインをまとめておられるのは法律の専門家が多いのか、多くの資料では「何が問題なのか?(What)」と「どう対処すれば良いか?(How)」しか書かれてないように見えます。G検定など各種の検定試験も喧伝され、読者は必然的に書かれていることを丸暗記する方向に努力することになる…この種のことをなんでも受験勉強のようにしてしまうのは日本人の悪い癖なんじゃないかと思ったりします😛
何事も「✖️✖️✖️の常識」的な知識だけを詰め込んでる。これでは、海外へ出向いた際「AIガイドライン」の任意のトピックについて個人の意見を求められても、自分なりの見解は示せないのでは?などとお節介なことを考えたりします。日本人は「何故問題なのか?(Why)」を軽く扱いすぎると僕には思えてなりません。
このシリーズでは、今日ふたたび注目を集めている「AI倫理」の問題について皆さんに考えてもらうヒントとして、第1次AIブームの主役の一人であるジョゼフ・ワイゼンバウム(とジョン・マッカーシ)の著作について紹介してきました。が、今回は別の人物を主役にすることにしました。ワイゼンバウムの著作が出版された1976年時点ではむしろ反発の多かった彼のの「AI倫理」に関する警告が、徐々に社会に受け入れられるようになった経緯について妄想してみます。それでは…
史上初の「AI倫理」論争を追って(7)
今回の主役は、前回の最後で触れたヴィクター・ワイスコフです。
ワイスコフは1908年生まれのユダヤ系オーストラリア人でした。彼は大変優秀なアカデミアだったようで、1931年にドイツのゲッティンゲン大学で物理学の博士号を取得したのち、ヴェルナー・ハイゼンベルク、エルヴィン・シュレディンガー、ニールス・ボーア、ポール・ディラック、ヴォルフガング・パウリの下で助手を務めたそうです。量子力学を学んだ学生であればびっくりするでしょうが、彼が師事したのは、いずれも20世紀初頭の核物理学の黎明期に当時最先端であったドイツに登場した天才たちでした。平時であれば、このままドイツで核物理学の大先生になるはずのキャリアですよね?
ですが…
ユダヤ系であったが故に、1933年のナチスの政権奪取を契機に、彼のキャリアは暗転することになります。1937年にアメリカのローチェスター大学で教職を得ます。ナチス政権奪取後、多数のユダヤ人科学者がイギリスやアメリカに亡命しましたが、既に大学教員としての実績のあったワイスコフは比較的恵まれていたように見えます。が、それでも若干30歳で、それも自分に非の無い理由で亡命を余儀なくされる状況には、理不尽さを感じたのではないかと思います。
第2次世界大戦後は、1946年にMITの物理学部に教職を得て、最終的に学部長まで登り詰めます。さらに1961年から1968年まで欧州原子核研究機構(CERN)の事務局長を務めました。その後は数多くの受賞歴もあり、Wikipedia ページを見る限り、核物理学の大家となった彼は成功した人生を送ったように見えます。
でも、ジョン・マッカーシーによれば…
ワイスコフは、ワイゼンバウムの著書『Computer Power and Human Reason』を「ジャケットで賞賛し、ワイゼンバウムを傑出したコンピューター科学者と呼んだ」とあります。1976年と言えばワイスコフはMITに戻っていますが、学内では反発も多かったワイゼンバウムの著書を(たぶん敢えて)賞賛したことには何か理由はあるのでしょうか?
次のページを見ると、その答えがわかります。
この Atomic Heritage Fundation のサイトは、第2次世界大戦中のアメリカの原子爆弾開発計画であるマンハッタン・プロジェクトに関する資料が集積されています。ワイスコフはマンハッタン・プロジェクトに参加した理論物理学者でした。このサイトでの彼のページには、マンハッタン・プロジェクトでの彼の関与について踏み込んだ情報が掲載されています。
ロバート・オッペンハイマーは後にマンハッタン・プロジェクトのために設立されたロスアラモス研究所の所長になりますが、ここではプロジェクトに参加する以前からワイスコフと親交があったことが示されています。明確には述べられていませんが、(後に公になりましたが)オッペンハイマーの弟夫婦や交際中の彼女が共産党員であったことから、ヨーロッパ大陸でのソビエト連邦の動向はオッペンハイマー個人にとってもシリアスな問題でありました。オッペンハイマーにとってワイスコフは信頼できる友人であったことが窺い知れます。
この記述からワイスコフがハンス・ベーテやエンリコ・フェルミと共に長崎に投下されたプルトニウム爆弾、通称「ファットマン」の開発そのものに関わっていたことがわかります。トリニティサイトとは1945年7月16日に行われた世界初の核実験であるトリニティ実験を意味します。なおヘッダーの画像は、トリニティ実験後の爆心地を撮影した航空写真です。ちなみにWikipediaの英語版の同ページでは近年明らかになった歴史的な事実が追記されているので格段に情報量が増えていますので、英語が苦にならない方はチェックしてみてください。
マンハッタン・プロジェクトでは、機密保持を徹底するために全米の辺境の地に原爆開発に従事する人々のための街が幾つも作られました。第2次世界大戦中、これらの都市は米陸軍が管理・監督をする事実上の秘密都市でしたが、ワイスコフが住民自治のリーダーでもあったことがわかります。
この記述は米陸軍のアルソス作戦を示唆しています。この作戦の詳細はこのページで確認することができますが、目的はナチスドイツの原爆開発に関わる人物・記録・資料をソ連よりも先に確保することでした。ブラックリストの筆頭には、かつてワイスコフが師事していたヴェルナー・ハイゼンベルクの名前があり、米陸軍では「ドイツ軍10個師団より価値がある」人物と目されており、文字どおり血眼になってハイゼンベルクを探したと言われています。この記述から推測すれば、ワイスコフはハイゼンベルクの拉致に自らが参加することで、何かと手荒な陸軍から彼を守りたかったのでしょう。
作戦は連合軍のイタリア侵攻後(1943年末あたり)から始まり、大戦終了後の1945年10月まで続きましたが、マンハッタン・プロジェクトにとって、この作戦はドイツの原爆開発の進捗を確かめる意味で重要視されていました。というのも1944年には東部戦線でのドイツ軍の劣勢が伝えられるようになると、プロジェクトに参加する科学者を中心に「ドイツが実用化する前に原子爆弾を完成させる」という当初の目標を疑問視する見方が増えて、プロジェクトから離脱する科学者も現れました。彼らを引き止める方策に窮した陸軍は、ドイツの原爆開発の具体的な進捗がわかれば、ロスアラモスの科学者たちも余計なことに気を取られず自らが担当する仕事に集中できるだろうと考えたようですが……その期待に反して、ドイツ側の原爆開発が頓挫して、事実上放棄されていたことが確定的になったのは、ハイゼンベルクが拘束された1945年5月のことです。同月にはベルリン陥落でドイツが降伏し、また4月にはプロジェクトを承認した米大統領フランクリン・ルーズベルトの急逝などが重なり、この時期、マンハッタン・プロジェクトは続行するための大義名分を完全に失っていました。
新たな「第二次世界大戦を終結させる」という大義名分を掲げてプロジェクトを続行させた司令官のレズリー・グローヴスの判断には今でもその是非の議論が続いてますが、軍人たちの強引な手法の前にプロジェクトに参加していた科学者たちはなす術もなかったことは否めません。それが前述のトリニティ実験であり、続く広島・長崎への原爆投下でした。
大戦終結当初、アメリカのマスコミはグローヴスたちの目論見どおりに、オッペンハイマーを始めとするマンハッタン・プロジェクトの科学者たちを「大戦を終結させたヒーロー」として持ち上げましたが、終戦から概ね1年後の1946年8月31に刊行された雑誌『ニューヨーカー』は紙面を全部使ってジョン・ハーシーの『ヒロシマ』を掲載しました。このノンフィクション小説のような記事について詳しいBBC の2016年の記事を添付しておきます。
なお、1999年にニューヨーク大学のジャーナリズム学科によって、この記事は20世紀のアメリカのジャーナリズムのトップ100の第1位に選出されています。さらに Wikipedia 英語版の『ヒロシマ』のページには次のような引用があります。
同じ被曝地でも、欧米ではまず "HIROSHIMA" と語られることが多いのは、おそらくハーシーのこの記事の影響が残っているからでしょう。結果的に、日本に対する原爆投下の是非に関しては国論を2分する問題として今でも残り続けています。同時にこの問題について、日本人に対するアメリカ人のある種の忖度も続いているようにも思えます。
ひとつ例を挙げれば、アメリカでは今年夏に公開されたクリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』。何故か日本公開は今でも決まっていません。
マンハッタン・プロジェクトは最先端科学技術の研究開発と倫理のジレンマが浮き彫りになった事例のひとつであり、関わったほとんどの人間は大きなトラウマを抱えてしまう…おそらくハーシーが語るヒロシマの人々の物語にうなされた人は少なくなかったと僕は想像しています。
故なき理由で祖国を追われたヴィクター・ワイスコフの場合、親しい友人からの誘いに従い、強いて言えば我が身や同胞を守るために関わった原爆開発で、苦労して完成に漕ぎ着けたのに、知らない間に加害者側に座ってることになっていて、見ず知らずの他者から「何故開発に加わったのか?」と詰問される…これ以上の理不尽はそうそうないでしょう。
事実、マンハッタン・プロジェクトの科学者のうち、戦後もそのまま軍の核兵器開発に関わった人間はごくわずかで、大半は核物理学から他の分野へと転向したり、あるいは核廃絶運動に参加して尽力したり…何らかのトラウマを抱えてしまった人が多かったのだと思います。「どうしてこんなことになってしまったのか?」とか「あの時どんな態度を取っておれば、こんなに追い込まれることはなかったのだろうか?」と自問自答する人が多かったんではないでしょうかね?こういう時、お仕着せのガイドラインはあまり役に立たないように僕は思います。
このような経験をしてきたワイスコフには、1960年代のAIブームの渦中にあってなお、人間の尊厳を主張するワイゼンバウムを、気骨のある良識ある人物に見えたのではないかと僕は想像しています。
同時にマッカーシーの反科学のレトリックに同意しなかったのも尤もなことのように僕には思えます。(つづく)
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