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風船の気持ち
人が孤独を感じるときとは、一体どのような時でしょう。
世界で自分はたった一人だ、と嘆いてしまう、または人との関係性の中で孤立を感じている時、それは他者との関係性ではなく、自分自身との関係性が途切れている時なのかもしれません。
もう少し言うと、自分との関係性が途切れている、と思い込んでいる状態の時でしょう。
私たちは、自分自身とのつながりが途切れることはなく、いつもつながっている存在であるにも関わらず、そこに気が付いていなかったり、関係性が途切れていると思い込んでいれば、それはまるで手を離された風船のような存在になるからです。
しかし実はそれも、ただの思い込みに過ぎず、本当の自分は大きな愛で、しっかりとその風船を持っていてくれている存在がいます。
ただ、その愛が大きければ大きいほどに、風船の自由を尊重してくれるので、風船のひもを長くしてくれているのです。
そのため、きちんとつながっているものの、あまりに自由に動けるため、私たちはこう思うのです。
『誰も紐を掴んでくれてはいないのではないか』
そうして、自分はまるで一人になったかのように不安になったり、風であちらこちらに流されていくのを恐がったり、どこまでも遠くに飛んでしまうことを考えて不安になったりしていると思うのです。
ただ、そこに在るのは、あえて紐を長くして、そして誰も紐を掴んではないかのように見せている大きな愛なのです。
ただ、その紐を持つ手は絶対に手を放しません。
そのようにして、必ず私たちを一人にすることも、孤立させることなく、いつも目に見えない大きな愛で包んでくれている、御手なのでしょう。
しかし、風船の私たちから見た地上の御手は、あまりに遠すぎてその姿を見ることは出来ません。
また、本当に誰かが大切に持ってくれているのかもわからないのです。
ですから、不安になったり、恐れることもあるでしょう。
その思いが出てくるのは、とても自然で当たり前なことです。
そのため、私たちにできることは、目には見えないけれどそうだと信じることなのだと思います。
人は目に見えないものを信じにくい、と言うのもよくわかります。
しかし、時には人からの暖かい気持ちや優しさなど、目には見えなくても心に感じることはありませんか。
それと同じで、決して目に見えるわけではないけれど、私は愛されているのだ、と信じるのです。
そして、愛される価値がある存在だ、決してその御手は私を離したりはしない、と信じるのです。
多くの場合、私は愛される価値がないとか、愛されるにはふさわしくないと考えている時に、愛されていることを信じることが出来ません。
そうして、時には、私は一人になってしまったと思い込んでいることもあると思うのです。
風船の紐の先には、ずっと一緒にいるよと言ってくれている存在があるにもかかわらず、愛が大きければ大きいほど紐は長く、自由を尊重してくれるので、その存在に気が付くことも、信じることも出来なくなってしまう。
ただ、その大きな愛は、私たちが不安に思ったり、恐れた時もわかっています。
そのようにして、孤独を抱えている時でさえ、そんなあなたを見守り、見えない遠くから支えてくれています。
風船が木に引っ掛かり、何とかしようともがいている時にも、風に乗って気持ち良く流れている時にも、紐の先には暖かい存在があなたを見守っているのです。
それを信じることが出来ますか。
目に見えない大きな愛が、いつもあなたと共にあることを。
もしも信じることが出来なかったとしても、私は断言できます。
その大きな愛の存在は、決してあなたを手放したり、見捨てることはないということを。
いかがでしょうか。
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